宇宙の理を生き、日常に還す。
パラレルシフトナビゲーターMEGUです。







▶︎気楽っていいよね♡


最近、

「気楽に在れる」

という言葉が、ふっと出てきた。

気楽。

なんだか軽い言葉に見える。

深い真理とか、
神経の静まりとか、
身体に居ることとか、
存在感覚とか。

そういう言葉に比べると、
少し日常的で、
少し軽く聞こえる。

でも、思った。

気楽って、
実はとても深いのかもしれない。

たとえば、
誰かに何かを伝える時。

こんなこと言ったら、どう思われるかな。
迷惑かな。
嫌な顔をされるかな。
断られたらどうしよう。
変に思われたらどうしよう。

そんなふうに、

相手の反応を先に見に行ってしまうことがある。


言いたいことがあるのに、
言う前から身体が固くなる。

伝える前から、

もう相手の中に自分を探しに行っている。


これでは、気楽ではいられない。


それは、何かを伝える時だけではない。

断る時にも、同じことが起きる。

断ったら、悪いかな。
関係が壊れるかな。
がっかりされるかな。
冷たい人だと思われるかな。
私の存在価値が下がるかな。

そんなふうに、

相手の反応の中に、

自分の価値を探しに行ってしまうことがある。


本当は、無理をしている。
本当は、今は違うと思っている。
本当は、少し距離を取りたい。

でも、断ることで自分が悪い人になる気がして、
身体が固くなる。

これも、気楽ではいられない状態だと思う。

気楽に在れる、というのは、
何でも言えることではない。

何でも引き受けることでもない。

相手をどうでもいいと思うことでもないし、
自分勝手に振る舞うことでもない。

気楽に在れる、というのは、


相手の反応に、

自分の存在を預けすぎないこと。


出来事の結果に、

自分の価値を預けすぎないこと。


うまくいっても、

うまくいかなくても、


私は、私の内側に居る。


そんな感覚に近い。


願いを言えた。
頼みごとができた。
行きたいと言えた。
断ることができた。

それは、とても大事なこと。


でも本当に見たいのは、
それが叶ったかどうかだけではない。

相手がどう反応したかだけでもない。

言う時、
私の内側はどうだっただろう。


身構えていたのか。
身体が固まっていたのか。
相手の反応を怖がっていたのか。


それとも、
少し気楽だったのか。


断る時、
私の内側はどうだっただろう。

悪いことをしているような感覚があったのか。
相手のがっかりを背負おうとしていたのか。
それとも、自分の身体の声を消さずにいられたのか。


ここが、とても大事なのだと思う。


気楽とは、

浅い安心ではない。



なんとかなるよ、という軽いポジティブでもない。


もっと身体の奥にあるもの。



背中の奥。
骨の奥。
お腹の深いところ。


そこに、
ドスンと自分が居る。


意識の居場所が、
外側や頭の中ではなく、
身体側に移っている。


すると、
相手の反応を見に行く力が、
少し抜ける。

外側に自分の価値を預ける感じが、
勝手に薄くなる。

やめようと頑張るのではない。

気にしないようにするのでもない。


意識の居場所が身体側に移ると、
外側に確認しに行く必要が、
なくなる。


なぜならそれは身体に居るから。
ドスンと在れるから。


だから、気楽になる。

言っても、言わなくても。
叶っても、叶わなくても。
相手がどんな反応でも。


私は、私としてここに居る。


その土台が少しでもある時、
人は気楽に在れるのかもしれない。


出来事を変えるために、
気楽になるのではない。


気楽に在れる身体になると、
出来事の中で自分を見失いにくくなる。


そこが大事なのだと思う。


だから私は、
気楽という言葉を、
少し大切にしてみたい。


頑張って強くなるのではなく。

無理にポジティブになるのでもなく。

相手の反応で自分を測らなくなるように、
努力するのでもなく。


意識の居場所が、
身体側に移る。


すると、
気楽さは勝手に生まれてくる。


気楽に言える。
気楽に頼める。
気楽に断れる。
気楽に動ける。
気楽に受け取れる。


それは、
何も考えていない軽さではなく、

自分の内側に居るからこその軽さ。

外側に自分を預けすぎていないからこその軽さ。

気楽って、
実はとても深い。

私はそう思う。