♬生まれてこの方 一体いくつ分岐点を見過ごして来たんだろうか?♬〜クリプキ、タレブ、世界線〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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*本日、気功整体Trainee特別講習会です!

ともかく圧倒的な力とセンスを手にして、BootCamp生やメンバーを牽引していって欲しいと思います!

 

クリプキの可能世界意味論が間違っている理由は、そもそも理解の仕方があべこべだからです。

クリプキは過去はもちろん確定しており、現実世界というPossibleWorld(クリプキは現実世界もまた可能世界と考えているところは重要です)も一つであり、そこからたくさんの未来が分岐していると考えます。

 

 

たくさんの(ほぼ無限とも言える)未来が分岐しているという点は良いのです。

 

キリスト教圏における未来が確定しているという感覚に対するアンチテーゼになりますし、パラダイムシフトになります。

カルヴァンの予定説というデスノートっぽいフィクションはいまだに信じられていますし、ニュートン力学のパラダイムが骨身に染みていたら、その論理的帰結はラプラスの魔でしょう。すなわち、予定説と同様に未来はすでに確定しているのです。ビッグバンの瞬間に。

(そもそも従来のタイムマシーンという考え方がラプラスの魔的です)。

 

 

そこで量子論というサイコロが加わってきたときに、世界線であったり、パラレルワールドのような議論が出てきます。世界線とパラレルワールドは異なる概念ですが、SF的には似たものと取り扱われます。簡単のために、どちらも同じものだとすると、現在から膨大な世界線に分岐しているのは事実です。

 

 

それをクリプキはサイコロによって示しました。

子供のころに学ぶサイコロを振る確率論とは、小さな系での可能世界の学習だったのだ、と。

 

(引用開始)

さて、こうした確率の練習問題を学校でやらされることによって、われわれは実際、年少時に一組の(縮小版の)「可能世界」に引き合わされたのである。(引用終了)

(クリプキ「名指しと必然性」p.17)

 

 

 

いまここにいる自分から、大量の世界線が伸びているという光景は近代的です。

 

選択肢が膨大にあり、それを「自由」と名付けたりしました。

 

実際は選択肢が膨大にあると、「選択の科学」ではないですが、人は不自由というか、不快さを感じます。逆説的ですが、事実です。

スティーブ・ジョブズが暫定ながらCEOに復帰したときに、辣腕をふるったのは、顧客から選択肢を奪うことでした。

また、非常にうまくゴール設定とゴール更新がいっているときは、選択肢は一つしかありません。それを突っ走るだけです

 

自由の概念が転倒していたのです。選択肢が多いことは自由とは何の関係もありません(多分w)。

 

映画「悪の法則」の中に、おそろしい処刑道具の話が出てきます。

 

首輪です。徐々に締まっていく首輪です(徐々にと言っても5分やそこらです。でも殺される方からしたら、人生で最も長い時間でしょう)。

その首輪をかけられたら、解除することはできず(壊すと爆発するので、どちらにせよ死ぬという設定だったような)、締まるのを待つだけです。

 

そして人生もまたそうだ、と(死に向かってカウントダウンしているという意味でもあり、選択肢などそもそも無いという意味でも)

 

 

 

タレブがいつもぼやいていることには、確率の話をするとすぐにサイコロやギャンブルの話だと思う輩が多すぎる、と。

一度は編集者がタレブの本の表紙にサイコロを描いて、それにキレたそうです。

(「なぜ、タレブはキレたのでしょう?」という問題をセミナーで出したことがありますね。寺子屋だったか、まといのば講座だったか)。

 

消毒された確率の議論をタレブはしていないわけです。

大数の法則で捕捉されてしまうような、試験管の中の消毒された確率の話はしていないのです。

逆に現実世界が非常にニュートン力学的にふるまうのは、これゆえです。

大数の法則が支配しているので(逆に言えばひとつひとつのサイコロの目が見えないくらいに目が悪いので)、世界はラプラスの魔がいるように振る舞っているのです。予測可能に。

ラスベガスも同様です。ジャックポットがいくら出ようが、相当に偏ろうが、それは予測可能です(逆にイカサマは確率論で見るゆえに、すぐに検出可能なのです)。

 

 

「ひとつひとつのサイコロの目」という言い方でメタファーしているのは、量子ゆらぎのことです。無視できるような誤差として扱われます。

ただご承知のように集積回路においては、量子トンネル効果は無視できませんので、織り込まなくてはいけません。

 

繰り返しますが、カジノのビジネスはギャンブルではなく、結果はあらかじめ予想されています。誰がジャックポット(大当たり)を当てようが、カジノは痛痒にも感じません。折り込み済みだからです。

(タレブはカジノが潰れるのは、ジャックポットではなく、別なブラックスワンだと言います。不正経理とか脱税がバレたとか)。

 

選択肢に関しても似ています。

人生の岐路や、人生の選択も似ています。

 

まだ、シュレディンガーの猫が、半分死んでいて、半分生きていて、それが重ね合わさっているという説明のほうがマシなのです。

観測した瞬間に収束するというのは、非常にSF的ですが。

 

Creepy Nutsは

 

生まれてこの方
一体いくつ分岐点を見過ごして来たんだろうか?

墓場に入るまで
後一体いくつ可能性の芽を摘んでしまうだろうか?

 

 

 

と歌いますが、この分岐点なり選択肢というのは明示的なものというよりは、暗示的なものです。

 

もっとはっきり言えば、映画「悪の法則」の陰険で残酷な処刑道具のようなもので、気付いたらもうハメられているのです。成功にも失敗にも。

余計なことを言うならば、ずいぶんと前に、死にも感染にも見入られているのです(それを行動規制やロックダウンや消毒やマスクでなんとかコントロールしようと考えること自体が、ウィルス感染に対するありえないほどの傲慢であると考える謙虚さは無いのかと思いますがw)

(コントロールすべきは、その喫煙習慣であったり、睡眠不足であったり、運動不足であったり、栄養不足であったりします。マスクのような分かりやすい党派性を持った行動だけにフォーカスされるのが、僕らの時代の浅はかさです。疫病が神の怒りだと考えていた時代のほうがまともに見えるほどに、僕らは浅はかです)。

まあ、愚かさは笑い飛ばしましょう。

笑えない相手にはマスクをしましょうw

(我々は簡単に全体主義に陥りやすいことが社会実験できていると考えることです。重要な知見です)

セネカの時代も、我々の時代もそれほど変わりません。為政者の気まぐれで、我々は死ななくてはいけません。その為政者がネロではなく、大衆に変わっただけです(それを社会科学では進歩と考えます)。

 

 

我々としては、表に出ている分かりやすい(分かりやすく見える)事象の裏にある世界線の分岐を見たいのです。

 

そして見た以上は操作したいのです。

そして操作した以上は、そのフィードバックを現実世界で取りたいのです。客観的な形で取りたいのです。

 

このときに必要なパラダイムシフトは、現実世界とはそれほど確固たるものではないということです。

脆いものです。現実世界が確固たるものだと思うので、未来も固くなってしまいます。

 

逆にいくつもの世界線の束がごそっと提示されていて、その綱渡りをしているようなイメージです。次々と別な世界線をふらふらと移動しているようなものです。いくつもの綱があるのです。

どの世界線に乗っても良いのです。束でごそっと渡されているのです。

 

とは言え、未来は見通せず、曖昧なままです。でも確率計算はできるのです。限定的ながら。

 

だからこそノリで自分にとって最適な世界線を選びます。そして、違うと思ったら、また別な世界線を試します。

 

このときの移動を「意識状態」と呼び、意識状態とはIQと密接に結びつく概念です。

 

 

たとえば気功整体などでも同様の手法を取ります。

ヒーラーとクライアントは一蓮托生。両者が乗っている世界線の束があり、その束の中から、特定の線を選びます。そのときに意識状態をシフトしながら、良い線を絞り込んでいくイメージです。

 

正しい未来を選択できたときは、明確に分かります。強い体感を伴って分かります。

(これもまた「選択」ではないかと思うでしょうが、、、、いわゆる選択肢というのは存在せず、かつて選択したものが、現実世界に写像したときに「選択肢」の顔をするのだと考えます。選択は随分前に終わっているのです)。

 

強い体感と言っても、非常に微妙なものです。

ただし、分かる人には明確に分かります。

これは間主観的です。ほぼほぼ客観的と言えるような、共有可能なものです。あとからも検証可能です(ただ、「あとから」ですが)。

 

 

そしてその感覚は鍛えることが可能です。その鍛え方が、、、シンプルに言えば、アディトレや美肌クリーム、大周天、反筋トレなどです。もちろん筋トレも有効です。

情報に対する感度である以上は、自分の身体からのメッセージを聞き取れないといけないのです。

そして情報に対する共感覚ということで言えば、身体の感度を上げるしかなく、その方向で鍛えるべきなのです。

この鍛えるということで言うと、身体が大事で身体の中心は言うまでもなく腸です。脳ではなく(脳はどうしても浅はかなのです。脳だけ鍛えようというのが、SF的です。

本当に頭の良い人は、思考を身体性を持って行っている印象です)。

 

 

というわけで、議論が飛び散っていて、知性を全く感じさせない文章で申し訳無いのですが、週末のメンター養成スクールをお楽しみに!!

 

かなり強烈なものになると思います!

 

これまでの集大成であると同時に、これからの未来を占うものになるのではないかと期待しています!

 

メンター養成スクールは初の開催です!!

 

まだまだ飛び入り参加、歓迎です!!

 

 

【メンター養成スクール 〜ゴール設定と脱洗脳〜】
【日時】 9月19日(土)13:00〜18:00

     9月20日(日)13:00〜18:00

【場所】 四ツ谷のセミナールーム(丸ノ内線四谷三丁目駅、都営新宿線曙橋駅が最寄り)
【受講料】  230,000円(PayPal決済可能です。請求先アドレスを記載してください)

*Zoomによるライブ受講やヴァーチャル受講も可能です!
【受講資格】 「まといのば」の開催するスクール修了生(もしくはメンター生・修了生)
【持ち物】 情熱とゴールと筆記用具
【お申し込み】お申し込みはこちら!!

 

 

 

【書籍紹介】

 

 

 

クリプキはクリプキを読んで理解しましょう。

クリプキの解説本はクソ本が多すぎです。

もしくは寺子屋で学んでください。我田引水のようですが(実際そうですが)、クソ本の愚かさは受け継いでいません。

クリプキの議論はシンプルで美しいパラダイムシフトなのに、古いパラダイムでぐちゃぐちゃにしているのが、解説本たちです。

(そもそもクリプキの哲学書というよりは、クリプキの講演録ですので、非常に読みやすいです)。

 

ブログ内の引用を少し長めに引いておきます。

 

(引用開始)
二つのありふれたサイコロ(それらをサイコロAとサイコロBと呼ぶ)を振って、二つの目が現れる。 各々のサイコロにつき、六つの可能な結果がある。したがって、目の数に関する限り、一対のサイコロには三六の可能な状態があることになるが、現実に振られたサイコロの現れ方に対応するのは、これらの状態のうちただ一つだけである。様々な出来事の確率の計算方法を(諸状態の等確率性を仮定して)、われわれは皆学校で習っている。(略) さて、こうした確率の練習問題を学校でやらされることによって、われわれは実際、年少時に一組の(縮小版の)「可能世界」に引き合わされたのである。世界に関して、二つのサイコロとそれらが出す目以外のすべてのことを(仮に)無視する(そして片方または両方のサイコロが存在しなかったかもしれないという事実を無視する)限り、そのサイコロの三六の可能な状態は、文字通り三六の「可能世界」だと言える。これらのミニ世界のうちただ一つだけーーサイコロの実際の出力に対応するミニ世界ーーが「現実世界」なのであるが、現実の結果がどれだけ確実ないし不確実であったか(あるいは、あるだろうか)を問う時には、他の諸世界も関心の的となる。(クリプキ「名指しと必然性」 pp.17-18)

 

可能世界とは、頭でこしらえた仮想のSF的存在ではなく、リアルなものなのです。

 

「名指し」も同様です。

具体的な作業があり、具体的な関連があるのです。

それは物理的に指し示せるような繋がりがあるのです。

 

(引用開始)

誰か、例えば一人の赤ん坊が生まれたとしよう。その両親は彼をある特定の名前で呼ぶ。両親は、彼のことを友人たちに話す。他の人々が彼に会う。様々な種類の会話を通じて、その名前は結節点から結節点へとあたかも鎖のように広がっていく。この連鎖の末端にいて、市場かどこかでたとえばリチャード・ファインマンのことを聞いた話し手は、たとえ最初に誰からファインマンのことを聞いたのか、あるいはいったい誰からファインマンのことを聞いたのかさえ思い出せないとしても、リチャード・ファインマンを指示することができるだろう。彼は、ファインマンが著名な物理学者であることを知っている。最終的にその人自身に達する一定の伝達経路が、その話し手には実際に届いているのである。だとすれば、たとえファインマンを一意的に同定できないとしても、彼はファインマンを指示しているのである。彼はファインマン・ダイアグラムが何であるかも知らなければ、ファインマンの対発生・対消滅の理論が何であるかも知らない。のみならず、彼はゲルマンとファインマンの区別にすら困難を感じるであろう。それゆえ、彼はこれらの事柄を知るには及ばないのであり、その代わり、ファインマン自身に辿り着く伝達の連鎖は、彼が結節点から結節点へとその名前を受け渡す共同体の一員であることによって確立されたのであって、彼が自分の書斎でこっそりと、「『ファインマン』によって私は、これこれしかじかのことをした男を意味しよう」という儀式によって確立されたわけではない。(引用終了)(クリプキ『名指しと必然性』 pp.108-109)

 

世界線の束にまたがるような、そしてその線を一本一本精査するようなオカルトなのかSFなのかよくわからないような作業を、マジで正気でやろうとするならば、きちんと地に足をつける必要があります!