能力の輪を深堀りするドリルがあるとします(実際にあるのですが)。
そのドリルで掘れば掘るほど、能力の輪は良い意味で狭まり、そして集中できます。効率性は上がり、結果にも結びつくとします。
そのドリルを手にすることができたら、そのドリルを振り回して、ランダムにいろいろな場所を掘りましょう。
そして柔らかな土のところをどんどん掘り、硬い岩盤にあたったら、さっさとそこを回避して、別なところを探しましょう。
柔らかな土を彫っていって、固い土壌に当たったら、がんばらずに迂回します。
そうやって楽しく、楽をして掘っていくと、気付いたら「能力の輪」が深まっています。泥だらけになり、手は血まみれになるでしょうが、その作業は楽しいのです。
「能力の輪」というのは、ウォーレン・バフェットの言葉です。
c.f.自分の能力の輪がわかっているなら、そこにとどまっていればいい(ウォーレン・バフェット) 2019年08月06日
我々はこの能力の輪の中に、ゴールもWant toも成功も幸福も喜びもあると考えています。
その外では、我々は立ち往生してしまいます。
能力の輪の内側と外側を分ける1つの基準は効率性です。もしくは没頭と言っても良いかも知れません。集中して没頭すれば、結果的に効率性は上がります。
その輪の中にいると、その人の能力が発揮され、効率性が高いのです。
能力の輪で誤解しがちなのは、それが社会的な基準としての能力の序列とは無関係ということです。あくまでも本人の問題です。本人の中で、もっとも効率性が高いものと考えるべきです。
効率性が100万倍くらい異なるのです。
その能力の輪を見つけ、その中にとどまると、成功も幸福も約束されるのです(おそらくある程度の経済的繁栄も)。
多くの人は他人の能力の輪を見て、それを自分のものとしてしまいがちです。
ピーター・ティールの先生はそれを「ミメーシス」と哲学的に定義しました。
平たく言えば、マネということです。
伝説のインタビューアーであるラリー・キングが若いインタビューアーたちは自分たちのマネをするが、そのHowをマネするばかりで、Whyに至っていないと言います。
なぜ、私たちがそうするのかと言えば、それは自分が最もリラックスできるからだ、と。
とすると、先人のマネをするのではなく(参考にするのは良いと思いますが)、自分のスタイルを見つけるべきです。
「若いインタビュアーは私たちのスタイルをまねようとするばかりで、なぜ私たちがそうしているのかを考えない。私たちがそうする理由は、席についたときに自分が最もリラックスできるやり方だからさ」(サードドア)
c.f.運はバスみたいなもの。1台逃しても必ず次のバスが来る。でも準備しておかないと飛び乗れない。 2019年09月24日
ジム・ロジャーズは2つの重要なことを言っています。
これは「ギルド」スクールでも肝となる部分です。
ひとつは徒弟修業の重要さ、もう一つは自分のスタイルを見つけることの重要さです。
我々はリラックスできる方法を見つける前に、集団の中で揉まれながら、自分のミエリン鞘をサクッと造り上げる必要があります。そのあとに、自分のスタイルを見つけるのです。「自分が最もリラックスできるやり方」を見つけるのです。
不思議なもので(いや、不思議でも何でもありませんが)、セッションなどでその方法を指摘すると、「リラックスすることが悪(あく)」のような顔をする方が少なくありません。
もっと苦しまねば、天国で救われないと思っているかのように(笑)
我々の世界は様々なところで、あべこべにできています。
能力の輪についても同様です。自分がリラックスして、圧倒的な生産性を上げると、それが罪か悪いことをしているように感じる人が多くいらっしゃいます。
不思議に思えるでしょうが、これがパターンなのです(意識では楽をして儲けたいなどとうそぶく人であっても、無意識のパターンはNo pain, no gainです)
しかし、我々はそのような不合理な態度から距離を置きましょう。
「自分が最もリラックスできるやり方」が正義なのです。
もちろんその前提にはある程度以上の修練は不可欠です。
ギルドですね。
ウォーレン・バフェットでさえ、若い妻子を置いて、無給覚悟でメンターについて、働きながら学びました。そしてそれを選びました。
ダ・ヴィンチも然(しか)りです。
余談ながら、気功というのは、非常に面白いものです。
数学と似ています(というか数学がベースなので、似るのは当然でしょうが)。
たとえば、「能力の輪」というと、多い質問は「私の能力の輪は何でしょう?」というものです。
これは非常に真っ当な質問ですが、しかし「人の行く裏に道あり花の山」です。
質問を変えてみましょう。
「能力の輪が何かが分からなくても、それを開発する方法はありますか?」
という質問にします。
数学では、たとえば分からない数をあたかも分かっているかのように「x(エックス)」と置いて、式を立てたりします。Unknown(不明)であることが式を成立させることの障害にならないのです。
気功も同様です。
Unknownであれば、Unknownとして操作可能なのです。
自分の能力の輪が何かが全く分からなくても、それを開発する方法はあるのです。
それが冒頭で示した、能力の輪のためのドリルです。
ルー・タイスであれば、それを「Want to」と言ったでしょう。
欲の皮が突っ張ってしまうと「Want to」という斧が見えなくなります。
何の話かと言えば、イソップ物語の「金の斧」です(詳細は後述)。
多くの人が金の斧を手にするか、銀の斧を手にするかで迷ったあげく、Want toを見失っています。
(引用開始)哲学者マイケル・サンデルは、アリストテレスの「良い笛は誰に渡すべきか」という話について考察しています。誰に笛を渡すのか、はいたってシンプル。裕福な人でも、美しい人でもありません。一番上手く吹ける人に渡すのです。それこそが笛が存在する目的だから。正しい道は、いたって簡単にわかるはずです。(引用終了)(p.193 ラファエル著『無一文からのドリーム』)
イソップ物語の「金の斧」は、ご存知でしょうが、あらすじを確認しましょう(というか、イソップ物語は全編そっけない「あらすじ」だけですが)。c.f.イソップ童話集/樵夫と神さま
木の斧を落とした木こりは、ヘルメス神から、「お前が落としたのはこの金の斧か」と聞かれ、「いいえ、違います」と答えます。
水に潜ったヘルメス神は、
「では、この銀の斧か」
と聞きます。
「いいえ、違います」と答えます。
最後にヘルメス神が木と鉄できた木こりの斧を持ってくると、
「それがまさに私の斧です」と答えます。
ヘルメス神は感動して、持ってきた小道具の2つ(の金と銀の斧)も面倒なので、木こりにあげてしまいましたという話でした。
欲張りな木こりがその話を聞きつけて、自分も斧を池に落としますが、欲張って金の斧が自分の斧と嘘をついて、ヘルメス神に飽きられるというオチがつきます。
しかし、この話の奇妙なところは、木こりにとって、金の斧も銀の斧も役に立たないということです。白い象のようなものです。
金は柔らかすぎて、木を切れませんし、銀はすぐに錆びついてしまいます。銀の斧を所持し続けるためには、毎日磨き続けなくてはいけません。そして一度として木を切る役には立たないでしょう。
自分の役割がきちんと分かっていたら、そもそも鉄の斧以外の選択肢は無いのです。
しかし多くの人は自分の役割が分からないので、無駄にピカピカ光る貴金属に価値があると思い込みます。
しかし、これは行列にたくさん並んでいるから自分も並ぶのと同じく、ミメーシス(真似)でしかありません。自分を知っていれば、並ばなくて済みますし、金や銀の斧をつかまされなくて済むのです(最終的にはヘルメス神から金銀の斧を渡されてしまいますがw)。
イソップ物語の有名な逸話は「正直」という価値についてというよりは、自分の役割や自分のゴール、自分の能力の輪がしっかり見えているかどうかの試金石のような気もします(違うかw)。
Want toという斧も同様で、我々は気付いたら、使えない金や銀の斧に切り替わっている可能性があるのです。
たとえば、他者の欲望を模倣することを喜びとして(ホメオスタシス同調でドーパミンは出るでしょうし)、それがWant toだと思ったり、安全であることや安逸であること、何もしないカウチポテトという意味で「楽」なことをWant toと思ったりするのです。
その斧では木は切れません。
役割を果たせません。
見た目が素晴らしくても、白い象なのです。無用の長物です。
*タイの国旗(1855年-1916年)
であれば、まずは鉄の斧に切り替えることが必要となります。
まずは金や銀のフェイクの斧を放り出して、能力の輪を磨く(開発する、狭める、深める)ことに専念したらどうかというのが今回のスクールの趣旨です。
前回の1Dayスクールでは「自分の才能を人知れずに開発する」とありましたが、ここで言う「人知れず」の人の中には実は自分も含まれるのです。自分さえ分かっていない才能を、自分でも分かっていないうちに開発できたら最高だよね、というスクールです(今回のスクールの冒頭でやるコンテンツでもあります)。
なぜかと言うと、自分の能力の輪は何だろうと自問することがまたCreative Avoidance(創造的回避)になるのです。
自分探しと自分の「能力の輪」探しに思わずインドに旅立ちたくなったりします。
ホメオスタシスくんはいつも逃げるための理由を探しているのです。言い訳を探しています。それももっともそうな言い訳を。
そのパターンを見抜いて回避することが重要です。
(回避する最大のポイントは、能力の輪の中にとどまることだったりします)
能力の輪についてのパラドックスと迷宮を解いているうちに、我々はソクラテスも見たというあのデルフォイの神殿の門に書かれている言葉に行き当たります。
γνῶθι σεαυτόν ( グノーティ・セアウトン )
「汝自身を知れ」ですね。
(ギリシャ語で「知る」はグノーティ。連想するのはグノーシス主義のグノーシス。そこからGがKに転化してKnowですね。knowはかつてクノーと呼んでいました)
*映画「マトリックス」の中でも預言者の部屋に掲げられていました。
c.f.人生、ビジネス、成功。どれもナイトクラブみたいなものだ。常に3つの入り口が用意されている。 2019年09月23日
「汝自身を知れ」という命題も、ゲーデル先生が躓(つまず)いた自己言及のパラドックスの香りがします(ゲーデル先生が本当につまずいたのか、利用したのか分かりませんが。少なくともラッセル先生はつまずきました)。
「汝自身を知れ」と言われますが、その知る主体と客体は分離するのか、、みたいな問題が顔を出します。
ですので、そのような「哲学的な問い」もスルッと回避しながら、我々は楽しく「能力の輪」を開発していきましょう。
ちなみに「能力の輪」のような高度に抽象的なものを気功で扱うときのルールがあります。
(気功師なんて、下手すると(下手しなくても)思い込みを押し付ける詐欺師みたいになりがちです。なるべく客観的に測定可能な指標が欲しいのです。我々はそれをフィードバックと言っています)
それは錬金術師のルールでもあります。
1つはおなじみの最後の大錬金術師であったニュートン先生が訳したことでも知られるエメラルドタブレットの一節です。
・「下にあるものは 上にあるものの如く 上にあるものは 下にあるものの如し」
("That which is Below corresponds to that which is Above, and that which is Above, corresponds to that which is Below, to accomplish the miracles of the One Thing.)
(That wch is below is like that wch is above & that wch is above is like yt wch is below to do ye miracles of one only thing.(The Translation of Sir Isaac Newton 1680))
*エメラルドタブレットですが、左下の人が見えるでしょうか?相当に巨大なタブレットなのです。
そして、もう一つがなぞなぞのような難解な以下のルールです。
・「曖昧なることを説明するに一層曖昧なることを以って、未知なるものを説明するに一層未知なるものを以って(obscurum per obscurius, ignotum per gunotius)」
これを非常に単純に説明するならば、ヘーゲル先生の
理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。
ということになります。
いや、もっとシンプルに言いましょう。
高度に抽象的な書き換えであっても、即座に物理レベルに変化を見ることができるということです。見るべきポイントをしっかり見ることが必要ですが。
そして、「曖昧なることを説明するに、、」に関しては、下から積み上げずに、上から落下傘方式で説明した方が分かりやすいということです。抽象度の高いところから、見た方が整合的に見えるのです。
下から上はランダムで、上から下はパターンが見えるのです(整合的に見えます)。
だからこそ、まず高いところへ飛翔し、そこから見ることが重要となります。
まとめていきましょう!!
フェイスブックの創業者であるマーク・ザッカーバーグはいつもこう自問するそうです。
「今ぼくは自分にできる一番大切なことをやっているのだろうか」と。
ここにすべて含まれていますが、非常に難しいことも事実です。
「今」とはいつのことか、「自分」とは誰のことか(どのような機能を社会に果たせる人か)、「一番大切」なこととは何か(どの基準で決めるのか、どのゴールから見るのか)、「やっている」とはどこまでを含めるのか。
どの境界がボケたとしても、意味がない言明になります。非常に繊細さが要求されます。
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。(Serenity Prayer)
c.f.多くの天才は子供のころに周囲の人から才能を見落とされ、人知れずスキルを伸ばす。 2019年08月08日
というわけで、ギルド=ゴールドスクールお楽しみに!!
今回のスクールもかなりのボリュームになりますが、一方でがっつりとワークもやります。
理論は勘所(かんどころ)がわかれば、文章でも大量に提供できますが、ワークは場を共有し、時間と空間を共にしないとできません。ですので、実践重視、ワーク重視で楽しくやりましょう!!
自分を知り、自分の強みを知り、何よりも楽しく人生を渡っていくためにとどまるべき良い意味でのHomeが見えてきます!落ち着きとやすらぎのHomeです。
ちなみにその「能力の輪」から一歩外を出れば、そこは暴風雨です。
僕らはあわてて家(Home)に戻りながら、ふと気付きます。
自分は台風の目にいるのだ、と。
変化の中心にいるのだ、と。
【ヒーラー養成スクール特別編 ギルド=ゴールド スクール 〜「能力の輪」と天才を作るギルド集団、ミエリン鞘、ディーププラクティス〜】
【日時】 10月12日(土)15:00~20:00
10月13日(日)13:00~18:00
【場所】 四ツ谷のセミナールーム
【受講料】 230,000円(PayPal決済可能です。請求先アドレスを記載してください)
【受講資格】 「まといのば」セミナー受講生(もしくはそれに準ずる方、他で「まといのば」の主宰のセミナーを受けている方もOKです)
【持ち物】 情熱とゴールと筆記用具と動きやすい服装
【お申し込み】お申し込みはこちらから。
そして11月のスクールも続々と「まといのば」の猛者が集結中です!!
お楽しみに!!!
【気功整体師養成スクール 〜名人達人への道〜】
【日時】 11月23日(土)15:00~20:00
11月24日(日)13:00~18:00
【場所】 四ツ谷のセミナールーム
【受講料】 230,000円(PayPal決済可能です。請求先アドレスを記載してください)
【受講資格】 「まといのば」セミナー受講生(もしくはそれに準ずる方、他で「まといのば」の主宰のセミナーを受けている方もOKです)
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【書籍紹介】
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フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
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(引用開始)
ぼくは毎日のようにこう自問している「今ぼくは自分にできる一番大切なことをやっているのだろうか」と。(引用終了)
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寺子屋「ヘーゲル」などを参照してください!
(引用開始)
だが彼の理念のきわだった特徴の中心をなす原理が、まさしくその当時、世界の切迫している変革の中心となった軸であるということによって、プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである。
理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。
とらわれない意識はいずれも、哲学と同様に、この確信に立っているのであって、哲学は自然的宇宙の考察と同じく精神的宇宙の考察においても、この確信から出発する
そこで実際、本稿は、国家学をふくむかぎり、国家を一つのそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握し、かつあらわそうとするこころみよりほかのなにものでもないとする。それは哲学的な著作として、あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いものであらざるをえない。そのなかに存しうる教えは、国家がいかにあるべきかを国家に教えることをめざしているわけではなく、むしろ国家という倫理的宇宙が、いかに認識されるべきかを教えることをめざしている。
Hic Rhodus, hic saltus.(ここがロードスだ、ここで跳べ)
存在するところのものを概念において、把握するのが、哲学の課題だ。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人にかんしていえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を超え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在しない。
さっきの慣用句は少し変えればこう聞こえるであろうーー
ここがローズだ、ここで踊れ
(略)
理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在を喜ぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である(引用終了)(ヘーゲル『法の哲学』)












