*明日開催です!!!お楽しみに!!!
9月6日(木)まといのば講座「瞑想、強運と幸福と成功のレシピ、遺伝子のエレガントな書き換え方」(受講料3万円、19時〜21時半)(ヴァーチャル受講も可能です!!)
同じ本を読んでも、同じ舞台や、同じ映画や、同じ演劇を観ても、驚くほど違うモノを見ているということはよくあります。
平たくいえばスコトーマ(心理的盲点)ですね。
書籍の場合は、がんばれば、かなり具体的に検証可能です(舞台や映画や演劇は主観という厄介なものが介在して、記憶も曖昧になりがちなので検証が難しく水掛け論になりがちです)。
だからこそ演劇評や映画評や舞台評というのは大事です。彼らが我々の蒙(もう:スコトーマ)を啓(ひら)いてくれるのです(理想的には)。
余談ながら、最近、メンターの受講生から速読術についての質問をいただきました。
そこで回答したのは、「ゆっくりと丁寧に読め」ということです。
雑に素早く読んでも、何も残らないどころか有害だからです。
(その意味で僕は動画の二倍速、三倍速や速聴などにも反対です。僕も以前はやっていました。ですので、まあ、別にやっても良いのですが、、、。もし、速聴などが時間の節約になるというのであれば、その動画なり音声を聴くのをやめればいいと思います。それが一番の時間の節約ですwもっと集中しないと頭に入ってこないものを集中して取り組むほうがいいです。速読も同じです)
何が有害かと言えば、書籍も動画もそうですが基本的には一度しか読めないからです。集中して丁寧に一度目を堪能しないと、次がないのです。逆に雑に一度目を読んだり見たりしてしまうと、その記憶が巨大なスコトーマを構成してしまうのです。
「まといのば」でもかつては幾度となく速読術の講座を開催しました!
そこでは独特の集中法、トランスや、視線の使い方、めくり方などを教えてきています(またやりましょうw)。
でも原則の原則、中心の中心は、丁寧にゆっくりと論理を追うことです。
文字が読めないのに、どんなに早く読んでも読めていないことには変わらないのです。
というか、むしろ悪い意味で無知が拡大してしまいます。
映画「Arrival」ではないですが、文字を読めるようになるというのは特殊な能力の獲得を意味します(それは母国語でも同じです)。
繰り返しますが、ラフな速度の何が有害かと言えば、書籍も動画もそうですが基本的には一度しか読めないために、きちんとした読解を阻害してしまうのです。集中して丁寧に一度目を堪能しないと、次がないのです。逆に雑に一度目を読んだり見たりしてしまうと、その記憶が巨大なスコトーマを構成してしまい、読みを阻害します。
気功の世界もそうですが、変に学んでしまった過去の勉強や修行が、新しいことを阻害します。
「困難は、新しい思想にあるのではなく、大部分のわれわれと同じように教育されてきた人々の心の隅々にまで広がっている古い思想からの脱却にある。」(J.M.ケインズ 雇用・利子および貨幣の一般理論 塩野谷祐一訳 序文より)
*難しいのは、新しいアイデアを開発することより、古いアイデアから逃れることである 2012-04-08
「まといのば」のメンバーで意外とすくすくと成長されるのは、これまで一切気功やスピリチュアリズムに興味がなかった人です(そうでないことも、もちろんあります)。
彼らがなぜ「まといのば」の門を叩いたかと言えば、その動機はシンプルです。
バレエが上達したい、身体を高度にしたい、学問を体系的に学びたい、などです。
ゴールがあって、その達成を助けてくれそうだからという理由で、学び始めた人は早いのです。
気功に興味はなかったけど、脚が上がるなら何でも良いというのが彼女たちの動機です。
「まといのば」のメインコンテンツは気功ですが、その気功をたとえば中国や韓国、台湾などで学んできた来た方というのは(それは素晴らしいことですが)、そのアイデア(学んできた概念)がしばしばスコトーマになります。
それまで大きなお金と時間を投資して、人生を賭けてきたことを否定するのが辛いとか、こだわりがあるとかではありません。素早く学ぶ人は、素早く捨てるのが上手なのです(サンク・コストを見切るのが早いのです)。
それでも、心の隅々まではびこっている古いアイデアをすべて取り除くのは厄介なのです。
これと同じことで、雑に一度目を読んでしまったり、観てしまうと、そのアイデアが心にはびこるのです。それが真摯な二度目を阻害します。
メンターの受講生から「読みたい本がたくさんあるのですが、積ん読ばかりです!」と報告をもらいますが、読むべきタイミングが来るまでは無理に読まないのが吉です。
最高の読書ができると、「もっと早く読んでおけば良かった」「もっと早く知っておけば」と嘆くものですが、でも、そう思える読書ができたのが最高のタイミングだったといことです。
もし「もっと早く」読んでいたら、スコトーマだらけになってしまい、その良さを味わえなかったかもしれません。
余談ながら、かつての高校の国語の教科書に小林秀雄が載っていました(たぶん、「無常ということ」か何かですね)。
僕は教科書で知る以前にどっぷりと小林秀雄にはまり、その素晴らしさも難解さも味わっていたので良かったのですが、小林秀雄を知らなくて、小林秀雄を教科書で知る人々は小林秀雄を誤解したまま終わるだろうなーと思いました。
難解で晦渋な怪獣という感じです。
国語の教科書で小林秀雄を知り、嫌気がさした人は二度と小林秀雄を手に取ることはないような気がします(その意味で当時の文部省のネガティブキャンペーンのようですw)。
早すぎるのも、Have toもダメなんです。
でも、一番ダメなのは、雑に読むことです。
生き方が雑なんだよ
と僕は師匠によく言われます(笑)
*先日のセミナーで、僕がこよなく尊敬する同じフォルダにいる人シリーズです。
右上からエリファス・レヴィ、王仁三郎、そしてセルゲイ・ディアギレフです。
いや、笑い事がではないのですが、、、とても、重要なことです。
雑に生きてはいけないのです。丁寧に生きるべきなのです(このベキはHave toではなく、定言命法のような感覚です)。
雑ではダメなのです。雑に読んだり、観たりすると、それはそのときだけにとどまらず、ずっと悪影響を及ぼします。
丁寧さが大事なのです。
人は、完全に模倣から逃れることはできないけれど、細やかな神経があれば、それだけでその他大勢の人間より大きく一歩リードできる(ピーター・ティール)
おなじみのティールの言葉ですね。
ミメーシスを巡る議論ですね。
模倣は本能であり、逃れることができないが、そこに「細やかな神経があれば」という話ですね。
そして、次はいわば科学のセレンディピティーですね。
科学の歴史では往々にして、注意深い人が何かを探していて、別のものを見つけ、それが重要だと気づいたときに、大きな飛躍がもたらされる(ジム・ドワイヤー)
この感覚をもう少しスピっぽく、オカルトっぽく描くと(と紹介すると、ポランニーに怒られそうですが)、、、でもこの感覚が真理だと思います。
しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。(pp.126-127 マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』)
だからこそ、雑さはダメなのです。
雑とは我意の介在であり、それは害なのです。
隠れた実在は、丁寧に生きている人に微笑み、その真理の一端を垣間見させてくれるのです!!
(と、ジムでスクワットの最中にブログを書いている僕は「丁寧に生きている」のか、、)
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