アランもソクラテスもチョムスキーも踊る 〜固くならず混乱せず、したがってこわがらず〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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哲学というにはあまりに軽く感じられるのはアランだけではなくソクラテスも同様です。

抽象的で難解な概念を、市井(しせい)の人々の言葉で語ることができるというのは、驚くほど困難なことです。そうは見えないだけで。イエスも釈迦も親鸞もそれに成功しました。明恵や空海と違い、彼らの周囲には水戸黄門におけるうっかり八兵衛のような気持ちだけは誰よりもある空っぽな頭しかなかったからでしょう。

空っぽな頭に期待できるのは、非常に少ないビット数で情報を次の世代へ伝えることです。伝言ゲームで(もしくは書き残したものが散逸しないことで)、死後10年後には、いや100年後かもしれないし、1000年後かもしれないが自分の情報の抽象度の高みに届く人がいるかもしれないという儚(はかな)い希望によるのだと思います(我々はガウスを思い、フェルマーを思い、著作を残さなかった釈迦やイエスやソクラテスを思い起こします。彼らは自分の周囲に絶望し、しかしそれは致し方ないことと諦めたと思います。わずかな希望を来たる世代に託します)。

礼儀はダンスのように覚えるものだとアランは言います。
そして、ダンスを知らないものはダンスの難しさを誤解している、と。
規則を覚え、自分の動きをそれに合わせることは物事の外観にすぎないと喝破します。重要なのは、固くならず混乱せず、怖がらずに踊ることだと。
これはある程度まで上手になったダンサーを指導する先生方は大きく頷かれることと思います。
才能も素質もあり、プロポーションも顔も綺麗なのに、心が弱いばかりにもったいないというダンサーはたくさんいます。「固くならず混乱せず」「こわがらずに」踊ることができればと願わずにはいわれません。

〈引用開始〉
礼儀はダンスのようにして覚えるものだ。ダンスを知らない者は、むずかしいのはダンスのさまざまな規則を知り、それに自分の動きを適合させることだと考える。しかし、それは物事の外観にすぎない。固くならず混乱せず、したがってこわがらずに踊れるようになることが必要だ。(p.247 「礼儀」 アラン 幸福論)
〈引用終り〉

アランという人は踊りを深く理解していると思うのは、次のような文章からも分かります。

脳科学を経て、認知科学を経た我々にはアランがそれらを熟知していたような錯覚を覚えます。
リベットの「自由意志はない」、認知科学の「自我はない」などを踏まえた発言に聞こえます。

我々はどんな筋肉も自分で動かし始めることはできず、運動がひとりでに始まる、と。リベットが準備電位は意思に先んじて起こることを示しました。

それを踏まえてアランを読みなおしてみると、新たな発見に気付かされます。

〈引用開始〉
われわれはどんなことも、腕を伸ばすことさえ、自分では始められない。だれも神経や筋肉に命令を与えてそれらを始めるわけではない。それではなく、運動がひとりでに始まるのだ。われわれの仕事は、その運動に身をゆだねて、これをできるだけうまく遂行することである。だから、われわれはけっして決定はせず、つねに舵をとるだけである。猛りたった馬の首を向けなおす御者のようなものだ。しかし、猛りたつ馬でなければ首を向けなおすことはできない。そして、出発するとはこのことだ。馬は活気づき、走りだす。御者はこの奮起に方向をあたえる。同様にして、船も推進力がなければ舵にしたがうわけでにはいかない。要するに、どんなしかだでもいいから出発することが必要なのだ。それから、どこへ行くかを考えればいい。
〈引用開始〉

われわれはけっして決定はせず、つねに舵をとるだけ」という感覚はきわめて正確であると僕は思います(僭越な物言いですが)。
そして、だからこそ「猛りたつ馬でなければ首を向けなおすことはできない」
し、「船も推進力がなければ舵にしたがうわけでにはいかない」のです。

最近の「まといのば」にもそんな流れを感じます。
新たな流れです。

猛りたつ馬が次々と参入し、それぞれが刺激しあって、めいめいの方向へ爆走しています。
これまでの加速学習のシステムなど完全に反故にして、ガシガシ進みます。異常なスピードで、砂漠に水を垂らしたかのように吸い込んでいきます。

逆に言えば、猛りたつ馬でなければ、推進力がある船でなければ、どれほど首を向け直しても舵をとっても無意味です。
まずは走り出しましょう。


そして蛇足ながら、アランの「われわれはけっして決定はせず、つねに舵をとるだけ」という言い方はチョムスキーを思い起こします。
ノーム・チョムスキーは変形生成文法で記憶される賢人です。

寺子屋ではセル・オートマトンについてはパスカルの三角形を用いて(正確にはシェルピンスキーのギャスケット)コンピュータ・サイエンス講座で行いました(【広告】寺子屋は夏に続き、11月に秋の総復習講座を開催します。ご期待ください)。

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*クリックすると拡大されて、セル・オートマトンが現れます。


セル・オートマトンは1950年代に熱狂的に受け容れられた概念です(おばあちゃんになった今でも魅力的です。リンクはブログ記事「私は深い恋に落ちてしまった。女性に恋をするのは...」です。)。

ただチョムスキーはバッサリと行きます。
触りだけ紹介します。(p.67)

(引用開始)
我々の脳が有限であるとは言っても、脳というのは、むしろ無限の能力を持つコンピュータのための制御システムなのです。つまり、有限オートマトンはそれ自体の記憶容量に厳密に限定されますが、我々人間はそうではありません。人間は、次のような意味において、むしろテューリング機械に近いんです。すなわち、我々の脳は、それ自身は有限の制御装置ではあっても、外部から与えられる無制限の量の記憶を利用することができ、その結果、どのような複雑な計算をも遂行することができるようになっています。有限オートマトンにはこうした芸当はできません。 (p.67 チョムスキー 「生成文法の企て」岩波現代文庫)
(引用終了)

丁寧に議論すべき内容ですし、一見すると批判すべきポイントがあるように感じますが、それは早計かと思われます。

有限オートマトンは自身の記憶容量に限定されるが、我々は有限の制御装置ながら、無限(ほぼ無限とみなして良い量)の外部世界の記憶容量を用いることができるということです。その意味で無限の記憶容量を持つチューリングマシンと同じなのです。

チョムスキーを続けましょう。

(引用再開)
ですから、より大きな、限界のないシステムにとっての制御装置として位置づけられるべきものである、ということを理解している限り、有限オートマトンという概念自体は有用なのです。テューリング機械の制御装置というのも有限オートマトンなのですが、テューリング機械が有限でないのは、その制御装置が外部にあるものーーすなわち記憶装置ーーと相互作用できるからなんです。そのおかげで、原理的には無限大の記憶を自由に利用して、計算を遂行することができるわけです。
 こういった記述のレベルにおいては、人間もテューリング機械と同様です。もし我々が本当に有限オートマトンだとしたら、文が三重に埋め込まれているような構造を持つ文は理解できるのに、埋め込みが四重になったとたん、もう能力の限界を超えてしまって、全く理解できなくなってしまう、というようになっているはずです。でも明らかにこれは事実に反しています。(pp.67-68 チョムスキー)

(引用終了)

チョムスキーの説明に何を加えても削っても、ぶち壊しでしかないことは重々承知です。

しかし、あえて解説を加えます。

ポイントは「テューリング機械の制御装置というのも有限オートマトンなのですが、テューリング機械が有限でないのは、その制御装置が外部にあるものーーすなわち記憶装置ーーと相互作用できるからなんです。そのおかげで、原理的には無限大の記憶を自由に利用して、計算を遂行することができるわけです。」という部分で尽くされています。

チューリングマシンが、コンピュータサイエンス講座でやったような小さな手と小さな頭で1つ1つ処理しているのは事実です。その意味ではセル・オートマトンと何ら代わりがありません。ただチューリングマシンがセル・オートマトンと決定的に異なり、かつセル・オートマトンが我々の脳と決定的に異なるのは、記憶容量です。外部世界の記憶装置をふんだんに使えるのがセル・オートマトンとチューリングマシンの違いです。我々の脳も外部世界の記憶装置(情報)をふんだんに使えますし、使います。むしろ外部世界と接続しない限り、脳はブートしません。

思い起こせば、かつてのヒーラー養成講座では感覚遮断実験について考えました。入力がなければ、脳は暴走し、発狂します(発狂しないのはヨガか瞑想の達人だけでしょう)。

というわけで、蛇足でした。

すなわち我々はここからのち、アランの「猛りたった馬の首を向けなおす御者」という脳の比喩から、チョムスキーのセル・オートマトン批判(?)、脳はチューリング機械であるという議論をその論拠と共に思い起こせるわけです。


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