「それでも地球はまわっている...」

ここで、庶民は素朴な質問を投げつけます。
では、地球がもし動いているならば、なぜモノは真下に落ちるのだ、と。
運動している物体であれば、たとえば電車から見る雨のように、斜めに落ちるのではないか?ということです。
これは意外と答えにくい質問です。
第一に質問の意味が分かりづらい、第二に質問の意味がわかったとしても答えにくい。
似た質問であれば、「地球は平面ではなく球体だ」というつぶやきに対して、「じゃあ地球の裏側の人は落ちてしまわないの?」という反論があります。これも第一に質問の意味がわかりづらく、第二に答えにくい(笑)
もちろん1つ目に対しては「慣性」、2つ目に関しては「万有引力」でおしまいなのですが。
ただその質問の臨場感に立って、深く考えてみると見えてくるものもたくさんあります。
ガリレオは即答して、船の上でも(船は高速で動いているにも関わらず)ボールは真下に落ちる、地球も同じだと答えます。
これがガリレイ変換です。運動はその慣性系によらず運動法則は同じであるというものです。
ガリレイ変換はすなわちガリレイの相対性原理です。
相対性原理と言えばアインシュタインが浮かびますが、最初はガリレオ・ガリレイです。そしてそのガリレオ・ガリレイのガリレイ変換を電磁気学に拡張したのが、特殊相対性理論と言えます。
これは「相対性理論」講座のときに受講生から質問もありましたが、「なぜガリレオ・ガリレイは相対性原理を言っているのに、ニュートンは絶対時間・絶対空間を導入したのか?」。
すなわち、ニュートンは一歩後退させたのではないかという鋭い指摘です。
相対性原理のままで行けばいいのに、わざわざ絶対時間や絶対空間を入れる理由です。
ちなみにニュートンは絶対時間・絶対空間で有名ですが、彼はそれを「定義」の中にはいれていません(定義のあとの注解に入れています)
ちなみにニュートンは明らかに厳密にユークリッド原論に従って、プリンキピアを書いています。
原論は定義(線や点、面、円、角度)、公準(いわゆる5つの公理)、公理(「同じものに等しいものは互いに等しい」など。映画リンカーンではこの公理を引いて、黒人と白人はおなじものに等しいのだから互いに等しい=平等なのではと無線技士に語りかけていたように記憶します)から始まります。
定義、公準、公理からはじめて、それを組み合わせることで定理が自己増殖していく有様はまさに公理系ですし、プログラミングと同じです。これが我々のバックボーンであり、たとえば哲学においてもそれは明確に意識されています。
もちろん近代のラッセルのプリンキピア(ラッセルのプリンキピアはニュートンのプリンキピア以上にユークリッド原論的です。その公理系をより純化しようとした試みだからです)やウィトゲンシュタインの論理哲学論考などはもちろんとして、たとえばリヴァイアサンのホッブズにおいてもです。
これは哲学講座でも引いていますし、ブログでも度々紹介していますが再掲します(ちなみにリヴァイアサンは旧約聖書のヨブ記3:8のレビヤタンのこと)。
(引用開始)
真理とは、私達が断定をおこなうに際に名称を正しく並べることである。
ゆえに、正確な「真理」を探求する者は、自分の用いるすべての名称が何を表すかを記憶し、それに従って正しく配置しなければならない。
さもないと、鳥もちにかかった鳥と同様、言葉の罠に巻き込まれてしまい、もがけばもがくほど言葉にとらえられる。
そのため、神が人類に与え給うた唯一のサイエンスである幾何学においては言葉の意味を定めることから始める。意味を定めることを人は「定義」と呼び、計算の初めに置く。
(「リヴァイアサン①」永井道雄・上田邦義訳 中央公論社)一部表記を改めています。
(引用終了)
最近はとみに英語にもラテン語にも慣れてきた「まといのば」メンバーのために原典にて(上記は略していますが、以下は段落すべてです)。
ホッブズによる英語版とラテン語版があるそうですが、英語版で。
(引用開始)
Seeing then that Truth consisteth in the right ordering of names in our affirmations, a man that seeketh precise Truth, had need to remember what every name he uses stands for; and to place it accordingly; or else he will find himself entangled in words, as a bird in lime-twiggs; the more he struggles, the more belimed. And therefore in Geometry, (which is the onely Science that it hath pleased God hitherto to bestow on mankind,) men begin at settling the significations of their words; which settling of significations, they call Definitions; and place them in the beginning of their reckoning.
Hobbs "Leviathan"
(引用しながら思いましたが、ちょっと英語が古くて読むのが大変ですね...)
繰り返しますと、まずは定義を起き、そして公理公準を起き、そこから思索をスタートさせるということです(厳密には証明をスタートさせる感覚です。思考するときは公理系的なアプローチ、演繹的アプローチだけを使うわけではないのではないかと「まといのば」では考えます。これについては寺子屋やスクールでもまた扱います)。
さて、ニュートンですが、定義について以下のように述べます。定義の注解です。
「これまでは、あまり知られてはいない言葉を以下においてどのような意味にとるべきか、という説明がみられました。しかし、時間、空間、位置、運動については、だれにでもよくわかっていることとして、規定しませんでした」と。(p.64 ニュートン力学 世界の名著 中央公論社)
ちなみにニュートンが定義しているのは「質量」「運動量」「固有力(慣性力)」「外力」「向心力」「向心力の絶対量」「向心力の加速量」「向心力の起動量」です。それぞれ定義1から8に対応します。
そして注解として、上記の「規定しませんでした」のあとに、「ただ注意すべきことは、人々はそれらの量を、感覚でとらえられる対象についての関係から以外は考えていない」と指摘した上で、それが偏見を生じさせるので、「それらの量を、絶対的なものと相対的なものに、真のものと見かけ上のものに、数学的なものと日常的なものに、区別」することを促します。
そして注解1から順に「絶対時間」、「絶対空間」「場所」「絶対運動」と定義していきます。
ポイントは数学を用いること(p.65)、そして感覚から抽象すること(p.67)です。
面白いと思ったのは、絶対運動の記述です。
「相対運動とは相対的な場所から相対的な場所への移行です。ですから帆走中の船の中で、物体の相対的な場所とは、その物体が占めている船の部分、あるいはその物体が満たしている船の空所全体のことです。したがってそれは船と一緒に動きます。また相対的な静止とは、物体が船の、あるいは船の空所の、同じ部分にひきつづきあることです。」(p.66前掲書)
我々の言葉で言えば「慣性系」ということです。
相対的な運動(すなわちガリレイ変換)を認めつつ、それとは別に絶対時間と絶対空間は存在すると考えています。そして相対運動と絶対運動は区別されるとニュートンは考えていました(結果的にそれはアインシュタインに否定されますが)
余談ながら、さきの受講生の質問を考えると、ガリレオ・ガリレイからニュートンへは後退かといわれると難しい問題だと思います。たしかに相対性原理から絶対空間・絶対時間・絶対運動というのは
天動説から地動説へ移ったとき、それは宇宙の中心が(原点が)地球から太陽に移っただけと考えるならば、ガリレイからニュートンへは抽象度が上がっているように思います。ニュートンは太陽すら中心と見做さないという立場なので(多分)。
話を元に戻しまして、ガリレイ変換と運動の相対性原理というのは(同値ですが)、ニュートンにももちろん引き継がれ(ニュートンの生年はガリレイの没年という意味でも輪廻のように近代科学を引き継いで)、第一法則としています。
ちなみにニュートンがユークリッド原論を意識していたのは運動の3法則からもわかります。
運動の法則(Laws of motion)と書く前にAxiomsと書いています。
これは原論の公理と同じです。
すなわち、「公理、または運動の法則(Axioms, or laws of motion.)」が定義(Definition)に続く稿となります。
JFKではないですが、“ the torch has been passed to a new generation”(松明は新しい世代に受け継がれる)のです。
天才がすべてを変えるように見えますが、それは我々の目が悪いだけです。見えていないか見ようとしていなかのどちらかです。松明が受け継がれ、そこにささやかながら、何かを足すだけです。
天才の出現は、デウス・エクス・マーキナーではなく、その集団(コミュニティ)を象徴する存在に名前をつけるということに近いような気がします。個人か集団というのはあまり意味がありません。
ニュートンにはバローがいて、ライプニッツがいて、ハレーがいて、ガリレイがいて、ケプラーもコペルニクスもいました。ケンブリッジ(ケム川の橋という地名のカレッジ街)という場もありました。環境と個人は不可分です。
アインシュタインはニュートンを完成させようとして特殊相対性理論をつくりました。イエスが律法を完成させようとして新しい福音を宣べ伝えのと同じです。アインシュタインは電磁気学でもニュートン力学を成立させようとして、しかし変則性である光速度一定を何とか封じ込めようとしました。光速度一定はマックスウエルの方程式という理論からも、マイケルソン・モーリーの実験からもかなりの高い蓋然性をもって妥当とされます。するとガリレイ変換が成立しなくなります。そこでガリレイ変換の電磁気学版(というか光の速度に近い場合の補正)がローレンツ変換であり、その意味論が特殊相対性理論です(と「まといのば」では考えます)。
ただニュートンやガリレイの肩の上にアインシュタインもあり、旧約聖書の肩の上に新約聖書が当然にあります。
松明が受け継がれているのです。
以下は、蛇足ながら、
“the torch has been passed to a new generation of Americans”のJFKの就任演説(United States presidential inauguration)です。
あまりに有名な以下のセリフも印象的です。
And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you – ask what you can do for your country.
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.
Wikisourceより
だから国民諸君よ。国家が諸君のために何ができるかを問わないで欲しい――諸君が国家のために何ができるのかを問うて欲しい。
世界の市民諸君よ。米国が諸君のために何ができるかを問うのではなく、我々が人類の自由のために共に何ができるのかを問うて欲しい。Wikisourceより
まさに逆関数(インバース)ですね。
「国家が諸君のために何ができるか」というファンクションを入力するのではなく(質問するのではなく)、「諸君が国家のために何ができるのか」という逆関数を入力して欲しいとケネディは言っています。
