1話
第5話 家を出た朝、空はこんなに青かった
ノートを書き始めてから、一か月が過ぎた。
夫の言葉を、一つひとつ書き残した。
「こんなこともできないのか。」
「誰のおかげで飯が食えていると思ってる。」
「お前は何をやらせても遅い。」
「友達なんかと会う必要はない。」
書いているうちに、不思議なことに気づいた。
私はずっと、「たまに機嫌が悪いだけ」と思い込もうとしていた。
でも、文字にすると違った。
毎日だった。
ほとんど毎日、何かしら否定されていた。
弁護士からは、住まいも決めてから動くようにと言われていた。
美代子も一緒に、不動産屋を回ってくれた。
「一人で抱え込まないで。」
その言葉に、何度救われたか分からない。
駅から徒歩十分ほどの、小さなアパート。
築年数は古かったが、南向きで日当たりがよかった。
六畳と四畳半。
小さなキッチン。
ベランダには鉢植えが一つ置けそうなスペース。
部屋へ入った瞬間、私は思わず笑っていた。
「狭いね。」
そう言うと、美代子も笑う。
「でも、自分だけの家だよ。」
その一言で胸が熱くなった。
契約を終えた帰り道、美代子が聞いた。
「怖い?」
私は正直にうなずいた。
「怖い。」
「でも、このままの方がもっと怖い。」
家へ戻ると、夫はテレビを見ていた。
「遅かったな。」
私は「買い物」とだけ答えた。
もう言い訳を考えることにも疲れていた。
それから数日かけて、少しずつ荷物を運んだ。
一度に持ち出すと気づかれる。
だからバッグ一つ分だけ。
お気に入りのマグカップ。
母の形見の湯のみ。
アルバム。
セーター。
どれも高価なものではない。
でも、私にとっては人生そのものだった。
ある夜、夫が眠ったあと、寝室を見渡した。
四十年以上過ごした部屋。
子どもが熱を出した夜も、この部屋だった。
受験の日の朝も。
娘が結婚すると報告してくれた日も。
思い出まで捨てるわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
家を出る日は、驚くほど静かな朝だった。
夫は町内会のゴルフコンペで早く出かける予定だった。
「昼はいらん。」
それだけ言って玄関を出ていく。
ドアが閉まる音を聞いた私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「本当に……行くんだ。」
涙は出なかった。
ただ、心臓だけが大きく鳴っていた。
準備していた荷物を玄関へ運ぶ。
最後にテーブルの上へ、一枚の封筒を置いた。
中には離婚届と、一通の手紙。
『あなたへ。
私は四十二年間、妻として、母として、この家を守ってきました。
その時間を後悔しているわけではありません。
子どもたちに出会えたことは、私の宝物です。
でも、私はもう、自分を否定され続ける生活には戻れません。
これからは、自分の人生を生きます。
どうか探さないでください。』
手紙を書き終えたとき、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。
玄関の鍵を置き、ゆっくりドアを閉める。
「ありがとうございました。」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
長い結婚生活への別れだったのかもしれない。
外へ出ると、空は雲ひとつない青空だった。
こんな天気だったんだ。
ここ何年も、空を見上げる余裕なんてなかった。
新しい部屋へ着くと、美代子が先に待っていた。
「お疲れさま。」
その一言を聞いた瞬間、張りつめていたものが一気にほどけた。
「終わった……。」
私は床に座り込み、声をあげて泣いた。
悲しいからではない。
安心したのだ。
夕方、携帯電話が鳴った。
画面には夫の名前。
一度切れ、また鳴る。
さらに鳴る。
十回以上続いた。
震える手で電源を切ろうとした、その時だった。
弁護士から言われた言葉を思い出す。
「連絡が来ても、慌てて直接話をしなくて大丈夫です。感情的なやり取りは避けましょう。」
私は深呼吸をし、携帯を静かに机へ置いた。
窓を開ける。
初夏の風が、部屋の中をゆっくり通り抜けていく。
「静か……。」
誰にも怒鳴られない夕方。
誰にも呼びつけられない夜。
それだけで、涙が出るほど幸せだった。
管理人より
家を出る決断は、とても大きな勇気が必要です。
長い結婚生活があるほど、「今さら」という気持ちが強くなるかもしれません。
それでも、自分らしく生きたいという思いは、年齢に関係なく大切にしていいものです。
体験談募集
「家を出た日のこと」「離婚を決意した瞬間」「新しい生活を始めた体験」など、皆さまのお話を募集しています。
同じ悩みを抱える方の励みになるよう、大切に読ませていただきます。
