第1話 私はいつから笑わなくなったんだろう

朝五時。
目覚ましが鳴る少し前に、私はいつも目を覚ます。

長年の習慣というものは恐ろしい。
会社勤めをしていた頃の夫に合わせて身についた生活リズムは、定年して五年経った今も変わらなかった。

静かな台所でお湯を沸かし、味噌汁を作る。
ご飯を炊き、焼き魚を焼く。

六十五歳になった私の朝は、三十年前とほとんど同じだった。

「おい、まだか。」

リビングから夫の声が飛ぶ。

時計を見ると、まだ六時十分。
十分も早い。

「もう少し待って。あと焼くだけだから。」

そう返すと、すぐに舌打ちが聞こえた。

「要領が悪いな。本当に。」

その一言だけで、一日の気持ちが沈む。

昔なら言い返したかもしれない。
でも今は、そんな気力も残っていない。

夫の健一は六十八歳。
現役時代は大手企業で部長まで務めたことが、今でも自慢らしい。

「俺は会社じゃ何百人もまとめてきた。」
「お前とは能力が違う。」
「俺が稼いだから今の生活がある。」

そんな言葉を、何百回聞いただろう。

結婚した頃は違った。

優しくて、よく笑う人だった。
休みの日には小さなアパートで一緒に料理を作り、近所を散歩した。

あの頃は、この人となら幸せになれると思っていた。

変わったのは、出世してからだ。

命令することに慣れたのか、家でも部下を扱うような口調になった。

「茶。」
「新聞。」
「テレビ。」

返事をする間もなく、命令だけが飛んでくる。

子どもたちが家にいた頃は、まだ救いがあった。

娘や息子が笑わせてくれたし、学校行事も忙しかった。

「お母さん、ありがとう。」

その一言で頑張れた。

でも二人とも結婚し、それぞれ家庭を持った。

嬉しいことなのに、家には私と夫だけが残った。

そして夫は定年を迎え、一日中家にいるようになった。

「味噌汁がぬるい。」
「掃除機をかけたのか?」
「昼飯はまだか。」
「昼寝するから静かにしろ。」

一日中、監視されているようだった。

ある日、近所のスーパーで知り合いに会った。

「佐藤さん、久しぶり!」

高校時代の同級生、美代子だった。

十年以上会っていなかったのに、彼女はすぐ私に気付いてくれた。

「ちょっとお茶でもどう?」

その誘いに、思わず夫の顔が浮かぶ。

帰りが遅くなったら文句を言われる。
昼ご飯はどうする、と怒鳴られる。

私は反射的に首を振った。

「ごめんね。また今度。」

そう言うと、美代子は少し寂しそうに笑った。

「忙しい?」

「うん、ちょっとね。」

家へ帰る途中、スーパーの袋が妙に重かった。

忙しい。

本当にそうだろうか。

仕事はしていない。
介護もしていない。

ただ、夫の機嫌を取ることだけで一日が終わる。

夕方、洗面所で手を洗った。

何気なく鏡を見る。

そこには、疲れ切った顔の女性が映っていた。

頬はこけ、口角は下がり、目には光がない。

「……誰?」

その瞬間、自分でも驚くほど涙があふれた。

私はいつから笑わなくなったんだろう。

若い頃、旅行が好きだった。
映画も好きだった。
編み物も好きだった。

全部やめた。

夫が興味を示さなかったから。
文句を言われるのが嫌だったから。

夜。

夫はビールを飲みながらテレビを見ていた。

「おい。」

「何?」

「つまみ。」

立ち上がる私を見ながら、夫は当然のような顔をしている。

ありがとう、の一言もない。

そのとき、昼間に会った美代子の笑顔を思い出した。

自然に笑っていた。
背筋が伸びていた。

同い年なのに、まるで違って見えた。

布団に入っても眠れなかった。

天井を見つめながら、小さくつぶやく。

「このまま人生が終わるのかな……。」

翌朝。

ポストを開けると、一枚の封筒が入っていた。

差出人は、美代子。

中には短い手紙と電話番号が書かれていた。

『久しぶりに会えて嬉しかった。
今度ゆっくり話そう。
昔みたいに笑える日が、まだあると思うよ。』

その一文を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。

私は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

――あの日の再会が、私の人生を大きく変えることになるなんて、このときはまだ思ってもいなかった。


管理人より

長年のモラハラは、殴られる傷よりも深く心を削っていくことがあります。

「もう歳だから」「今さら離婚なんて」と諦めてしまう方も少なくありません。

ですが、人生は何歳からでも選び直せます。
この物語が、誰かの背中をそっと押すきっかけになれば幸いです。


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