第6話 離婚届の前に――夫が最後に伝えたかった、本当の理由


「離婚してください。」

その言葉が耳から離れませんでした。

帰宅しても。

お風呂に入っても。

布団に入っても。

夫の静かな声だけが何度も頭の中で繰り返されていました。

怒鳴られたわけではありません。

責められたわけでもありません。

だからこそ苦しかったのです。

夫は私を憎んで離婚したいのではない。

もう一緒に生きることができないと思っている。

その現実が何よりも重く感じました。


眠れない夜

時計を見ると午前二時。

眠れません。

リビングへ行き、一人で温かいお茶を飲みました。

ふと目に入ったのは、片付けた和室でした。

畳はきれいです。

棚も空っぽです。

昔は「早く片付けたい」と思っていた部屋でした。

それなのに今は、その何もない空間を見るたび胸が締め付けられます。

私は畳に座り込みました。

そして初めて、自分に問い掛けました。

私は本当に、夫と話し合おうとしていただろうか。

「邪魔だから片付けたい。」

「生活しづらい。」

その気持ちは間違っていなかった。

でも。

夫にとって、あの部屋がどんな意味を持っていたのか。

私は知ろうとしただろうか。

答えは「いいえ」でした。


義母が語った退職後の夫

数日後。

義母から電話がありました。

「少し話せる?」

私は義母の家を訪ねました。

義母は古いアルバムを持ってきました。

「これ、見て。」

そこには、小学生だった夫が写っていました。

畳の上で夢中になって電車の模型を組み立てています。

次の写真は高校生。

アルバイト代で買った模型を嬉しそうに持っています。

社会人になった写真。

初任給で買った機関車を抱えて笑っています。

義母は静かに言いました。

「あの子ね。」

「仕事がつらい時も、模型だけはやめなかったの。」

「お父さんが亡くなった時も。」

「会社で左遷された時も。」

「模型を磨いている時間だけは笑ってた。」

私は言葉を失いました。

私は趣味だと思っていました。

でも違った。

夫にとっては心の避難場所だったのです。


夫から届いた一通の封筒

その夜。

郵便受けに茶色い封筒が入っていました。

差出人は夫でした。

中には何枚もの便箋が入っていました。

私は震える手で読み始めました。

『突然離婚なんて言ってごめん。』

『でも、君を困らせたいわけじゃない。』

『怒っているわけでもない。』

『恨んでいるわけでもない。』

私は涙が止まりませんでした。

さらに読み進めます。

『退職した日、会社から帰る途中で怖くなった。』

『明日から誰にも必要とされないんじゃないかと思った。』

『家に帰って模型を眺めると落ち着いた。』

『あれだけは昔の自分を思い出せた。』

『父親だった頃。』

『働いていた頃。』

『夢を持っていた若い頃。』

『全部あの部屋に残っていた。』

私は便箋が涙で読めなくなりました。


一番苦しかった一文

手紙の最後に、こう書かれていました。

『君が捨てたのは模型じゃない。』

『俺は、そう感じてしまった。』

『俺という人間そのものを、「もう要らない」と言われた気がした。』

その一文を読んだ瞬間。

私は崩れるように泣きました。

そんなつもりはありませんでした。

一度も。

夫を否定したかったわけではありません。

快適に暮らしたかっただけ。

それだけだったのです。

でも。

受け取る側は違いました。

その事実を、私はあまりにも軽く考えていました。


最後のお願い

私は夫へ電話をしました。

「お願い。」

「もう一度だけ会って。」

しばらく沈黙が流れました。

そして夫は答えました。

「分かった。」

「最後に話そう。」

最後。

その言葉が胸に刺さります。

翌週。

私たちは、初めてデートした河川敷で会う約束をしました。

結婚前。

毎週歩いた場所。

桜並木が続く、小さな遊歩道。

私は何を話せばいいのか分かりませんでした。

謝れば済む話ではない。

時間は戻らない。

それでも。

最後くらいは、本当の気持ちを伝えたい。

そう思っていました。

でも私は、この時まだ知りませんでした。

夫が「離婚」を望んだ本当の理由は、まだ別にあったことを。

(最終話へ続く)


■管理人より

退職後、多くの方が「肩書きを失うこと」への戸惑いを経験します。趣味やコレクションは、単なる物ではなく、自分らしさや人生の積み重ねを感じられる大切な存在になっていることもあります。

一方で、生活空間を共有する家族にも現実的な悩みがあります。だからこそ、片付ける前に「なぜそれを大切にしているのか」を聞く時間が必要だったのかもしれません。

皆さんなら、この夫婦はもう一度やり直せると思いますか?それとも、お互いのために別々の人生を歩むべきだと思いますか?


■読者さまの体験談を募集しています

・退職後に感じた喪失感
・家族に理解されなかった趣味
・断捨離で後悔した経験
・夫婦で本音を伝え合えた出来事

ぜひコメント欄で皆さまの体験談やご意見をお聞かせください。


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【あの日、離婚届は出さなかった――35年目の夫婦が選んだ最後の答え】