第1話 退職した夫が家を占領し始めた日

「あと一年で定年か……。」

夫がそうつぶやいた日のことを、私は今でもはっきり覚えています。

結婚して三十五年。

夫は六十歳、私は五十八歳。

子ども二人は独立し、ようやく夫婦二人だけの生活が始まる。

私は少しだけ楽しみにしていました。

「定年したら二人で旅行しようね。」

「温泉巡りもしたいね。」

そんな話をしていた頃が、一番幸せだったのかもしれません。


退職祝いの日

夫の退職日。

会社から大きな花束を抱えて帰ってきました。

長年勤めた会社。

三十八年間、一度も転職せず働き続けました。

私は心から「お疲れさま」と伝えました。

夫も照れくさそうに笑っていました。

「これからは毎日が日曜日だ。」

その時は、それが悪い意味になるなんて思いもしませんでした。


趣味だけが増えていく

退職して一か月。

夫は毎日のように出掛けるようになりました。

ホームセンター。

中古ショップ。

フリーマーケット。

ネットオークション。

宅配便も毎日のように届きます。

最初は嬉しそうな夫を見て安心していました。

仕事一筋だった人です。

趣味くらい楽しめばいい。

そう思っていました。


しかし、家の様子が少しずつ変わり始めます。

釣り道具。

古いカメラ。

鉄道模型。

電動工具。

ラジオ。

双眼鏡。

レコード。

レコードプレーヤー。

家中が物で埋まっていきました。

六畳あった和室は、半年後には足の踏み場もありませんでした。


「そのうち片付ける」

私は何度もお願いしました。

「少しだけ整理しない?」

「押し入れに入らないよ。」

「使わない物は売ったら?」

夫はいつも同じ返事でした。

「そのうちな。」

「全部使う。」

「価値があるんだ。」

私は納得できませんでした。

一年間、一度も使っていない物ばかりだったからです。


積み重なるストレス

掃除機がかけられない。

窓も開けられない。

押し入れは開かない。

来客も呼べない。

私は毎日イライラしていました。

ある日、学生時代の友人が遊びに来る予定になりました。

でも家を見られるのが恥ずかしくて断りました。

理由は言えませんでした。

「ちょっと都合が悪くなって……。」

電話を切った後、一人で泣きました。

私の家なのに。

私は人も呼べない。

そんな生活になっていました。


夫にとっては宝物

ある日。

私は和室の前で立ち尽くしました。

夫は嬉しそうに鉄道模型を磨いていました。

少年のような笑顔でした。

「これな、限定品なんだ。」

「三十年前から探してた。」

私は思わず言ってしまいました。

「そんなガラクタばかり集めてどうするの?」

部屋の空気が止まりました。

夫の手も止まりました。

静かに顔を上げた夫は、小さな声で言いました。

「ガラクタ?」

私は言い直そうとしました。

でも遅かった。

夫は模型を抱えたまま立ち上がりました。

そして。

私をまっすぐ見て言いました。

「お前には全部ゴミに見えるんだな。」

その目は怒っているというより。

どこか悲しそうでした。

私は何も言えませんでした。

この一言が。

私たち夫婦を取り返しのつかない方向へ進ませるとは、この時は思いもしませんでした。

(第2話へ続く)


■管理人より

定年後、「物が増えて夫婦喧嘩になった」という話は珍しくありません。

本人にとっては長年集めてきた思い出や生きがいでも、家族から見ると「場所を取る物」に映ってしまうことがあります。

どちらが正しい、どちらが悪いと簡単に言えないからこそ、すれ違いは深くなってしまうのかもしれません。

皆さんなら、家中を埋め尽くすほど趣味の物が増えたらどうしますか?


■読者さまの体験談を募集しています

当ブログでは皆さまの体験談を募集しています。

・定年後の夫婦生活
・趣味やコレクションをめぐるトラブル
・断捨離で揉めた経験
・熟年離婚を考えたきっかけ
・退職後に夫婦関係が変わった話

「うちも同じでした」「こんな出来事がありました」という方は、ぜひコメント欄で教えてください。


▼第2話はこちら
【善意で片付けたつもりでした――夫が一言も笑わなくなった日】