第3話 笑わなくなった夫――「私のせいかもしれない」と初めて思った日

翌朝。

私はいつものように六時に起きました。

朝食の支度をして。

味噌汁を温め。

焼き魚を焼き。

「ご飯できたよ。」

寝室へ声を掛けました。

返事はありません。

もう一度呼びました。

それでも返事はありません。

心配になって部屋へ入ると、夫は布団の中で天井を見つめたままでした。

目は開いています。

でも、起き上がろうとはしません。

「体調悪いの?」

私は額に手を当てました。

熱はありません。

夫は小さく首を振りました。

「大丈夫……。」

その声には、まったく力がありませんでした。


何もしない一日

その日。

夫は朝食をほとんど食べませんでした。

昼食も食べません。

テレビも見ません。

新聞も開きません。

趣味部屋だった和室へ行っても、畳の真ん中に座るだけでした。

何もない壁を見つめたまま、一時間。

二時間。

私は何度も話し掛けました。

「散歩でも行こうか?」

「スーパー付き合ってくれる?」

「コーヒー淹れようか?」

返ってくるのは短い返事だけでした。

「いい。」

「あとで。」

「大丈夫。」

でも、大丈夫には見えませんでした。


食欲までなくなった

一週間。

夫は急に痩せました。

好きだった肉料理も食べません。

毎日楽しみにしていた晩酌もしません。

釣り仲間から電話が来ても出ません。

鉄道模型の仲間からのLINEも既読にならない。

以前なら真っ先に出掛けていた趣味の集まりにも、一度も顔を出しませんでした。

私は怖くなりました。

「ねえ、病院へ行こう?」

夫は首を横に振るだけでした。


娘からの電話

その頃。

娘から電話がありました。

私は正直に話しました。

「お父さん、何も食べなくなっちゃって……。」

電話の向こうで娘は黙りました。

そして静かに言いました。

「お母さん……全部捨てちゃったんだよね。」

私は胸が痛みました。

「でも、あのままじゃ生活できなかったの。」

「分かってるよ。」

娘はそう言いました。

でも続けました。

「ただ、お父さんにとっては仕事を辞めて残ったものが、あれだけだったのかもしれないね。」

私は何も言えませんでした。

その言葉が胸に突き刺さりました。


心療内科へ

さらに数日後。

夫は突然言いました。

「病院へ行く。」

私は驚きました。

夫からそんな言葉を聞くのは初めてでした。

付き添って心療内科へ向かいました。

診察は一時間近く続きました。

待合室で私は落ち着きませんでした。

何度も時計を見ました。

診察室から出てきた夫は、少し疲れた表情でした。

医師は私にも説明してくれました。

「退職後の環境変化や、大切にしていたものを失ったことなどが重なり、現在は抑うつ状態が疑われます。」

「しばらく休養しながら様子を見ましょう。」

その言葉を聞いた瞬間。

私は胸が締め付けられました。

「私のせい……?」

思わず口にすると、医師は静かに首を振りました。

「原因は一つではありません。」

「退職という大きな生活の変化もありますし、ご本人が感じている喪失感もあるでしょう。」

「ご家族だけが原因と決めつけることはできません。」

その言葉に少し救われました。

でも。

私の心は軽くなりませんでした。


買い戻せないもの

帰宅後。

私は必死になってリサイクルショップを回りました。

あの日売った模型。

カメラ。

古いラジオ。

何でもいい。

一つでも戻せたら。

そう思いました。

でも。

どこにもありませんでした。

店員さんは言いました。

「すぐ売れましたよ。」

私はその場で立ち尽くしました。

お金なら払える。

でも。

時間だけは戻せませんでした。


夫の日記

その夜。

夫が風呂に入っている間に、一冊のノートが目に入りました。

見てはいけない。

そう思いました。

でも、手が止まりませんでした。

開いたページには、退職した日の文字がありました。

「今日で会社が終わった。」

「明日から俺は何者なんだろう。」

「模型だけは昔の自分を思い出させてくれる。」

「あれを眺めている時間だけ、仕事を辞めたことを忘れられる。」

ページは涙で滲んでいました。

私は声を押し殺して泣きました。

私は片付けたつもりだった。

でも。

夫にとっては。

人生の支えを失う出来事だったのかもしれない。

その時でした。

脱衣所のドアが開く音がしました。

振り返ると。

夫が静かに立っていました。

そして私の手にある日記を見て。

一言だけ言いました。

「それまで読むのか……。」

その目には、怒りではなく。

深い諦めだけがありました。

(第4話へ続く)


■管理人より

定年退職は、多くの人にとって人生の大きな転機です。仕事を失うことは、収入だけでなく「役割」や「生きがい」を失ったように感じる方もいます。

一方で、趣味の物が家中を占領すれば、一緒に暮らす家族の負担も現実の問題になります。

だからこそ、この問題には「どちらが悪い」と簡単には言えません。

皆さんなら、夫婦でどう話し合いますか?


■読者さまの体験談を募集しています

・定年後の夫婦関係
・退職後の心境の変化
・断捨離で後悔した経験
・家族とのすれ違い

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▼第4話はこちら
【「全部お母さんのせいじゃない?」――家族がバラバラになった日】