第2話 善意で片付けたつもりでした――夫が一言も笑わなくなった日
「お前には全部ゴミに見えるんだな。」
夫がそう言って部屋を出て行った日から、家の中の空気が変わりました。
必要最低限の会話しかありません。
「おはよう。」
「ご飯できたよ。」
「ありがとう。」
それだけ。
以前のようにテレビを見て笑うこともなくなりました。
私は何度も考えました。
あの時、「ガラクタ」なんて言わなければ良かった。
でも、あの部屋を見れば見るほど、ため息しか出ませんでした。
家の中が倉庫になっていく
退職して一年。
夫の趣味は止まるどころか、ますます増えていきました。
リビングの隅には段ボール。
廊下には釣り竿。
押し入れには工具箱。
ベランダには使っていない植木鉢。
玄関には古い双眼鏡や三脚。
「いつ使うの?」
そう思う物ばかりでした。
掃除機をかけるたびに、私は物を避けながら歩いていました。
「この家は誰のための家なんだろう。」
そんなことを考える日が増えていったのです。
娘の一言
ある休日。
結婚して家を出た娘が遊びに来ました。
玄関に入るなり苦笑いです。
「お父さん、また増えたの?」
私は思わず愚痴をこぼしました。
「もう限界なのよ。」
娘は和室を見て驚いていました。
「これじゃ物置だね……。」
その時、夫は趣味仲間との集まりで外出中でした。
娘は静かに言いました。
「お母さん、一回ちゃんと片付けた方がいいんじゃない?」
その言葉が、私の背中を押してしまったのです。
「今しかない」
夫は二泊三日で釣り旅行へ出掛けました。
私は朝から和室へ入りました。
最初は整理だけのつもりでした。
使っていない物を段ボールにまとめるだけ。
そのつもりでした。
でも、一つ片付けると、また一つ。
「これも何年も触ってない。」
「これも壊れてる。」
「同じ物が二つある。」
気が付けば止まらなくなっていました。
娘も手伝ってくれました。
「これ、売れそう。」
「これは粗大ごみかな。」
私たちは汗だくになりながら片付けました。
夕方には、和室の床が見えていました。
何年ぶりでしょう。
畳の色を見たのは。
私は思わず笑いました。
「やっと普通の家に戻った。」
そう思ってしまったのです。
帰宅
三日後。
夫が帰ってきました。
玄関を開ける音。
「ただいま。」
私は少し緊張しながら迎えました。
「おかえり。」
夫は荷物を置き、和室へ向かいました。
そして。
足音が止まりました。
長い沈黙。
私は恐る恐る部屋をのぞきました。
夫は畳の真ん中に立ったまま動いていませんでした。
空っぽになった棚。
何もない床。
その景色を、ただ見つめていました。
数十秒後。
夫は私の方を向きました。
怒鳴ると思いました。
責められると思いました。
でも違いました。
夫は小さな声で聞いたのです。
「どこへやった?」
私は答えました。
「リサイクルショップと……処分した物もある。」
その瞬間。
夫の顔から表情が消えました。
怒りでもありません。
悲しみでもありません。
何か大切なものを失った人の顔でした。
「返して……」
夫は棚を見回しました。
引き出しを開けました。
押し入れを開けました。
何度も。
何度も。
そして私の前まで来ると、震える声で言いました。
「返して……。」
私は何も言えませんでした。
「もう売ったの。」
そう答えるしかありませんでした。
夫はその場に座り込みました。
肩を落とし。
何も言わず。
ただ畳を見つめていました。
私は初めて気付きました。
あの部屋にあった物は。
夫にとって「趣味」ではなく。
「人生」だったのかもしれない、と。
静かすぎる夕食
その日の夕食。
夫は箸をほとんど動かしませんでした。
味噌汁を一口飲み、ご飯を少し食べただけ。
「体調悪いの?」
そう聞いても頷くだけ。
目も合わせません。
その夜。
夫は趣味部屋だった和室で、一人座っていました。
何もない部屋の真ん中で。
夜遅くまで動きませんでした。
私は胸が苦しくなりました。
でも、この時はまだ思っていました。
「時間が経てば元に戻る。」
「きっと、そのうち笑ってくれる。」
そう信じていました。
しかし、その翌朝。
夫は布団から起き上がることができませんでした。
(第3話へ続く)
■管理人より
「片付け」は家族のためと思ってしたことでも、本人にとっては長年積み重ねてきた思い出や生きがいを失う出来事になることがあります。
もちろん、生活空間が物であふれれば、一緒に暮らす家族の負担も大きくなります。
だからこそ、この問題には簡単な正解がありません。
皆さんなら、家族が留守の間に趣味の物を処分しますか?それとも本人が納得するまで待ちますか?
■読者さまの体験談を募集しています
・断捨離で家族と揉めた経験
・趣味やコレクションを巡る夫婦喧嘩
・定年後に夫婦関係が変わった話
・「良かれと思って」したことが裏目に出た体験
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▼第3話はこちら
【笑わなくなった夫――「私のせいかもしれない」と初めて思った日】
