
刑務所に勤めていた頃の話
若い頃、刑務所の医務室に勤めていたことがあった。この職場は基本、刑務所内の人(受刑者)に対しての医療なのであまり仕事がない。
死刑でない受刑者はもれなく労働もペナルティに含まれているので、労務中に怪我をすることがある。その点で、精神科医より外科医の方が適していると言えた。労務中に労災的な結構な外傷を負うことがあるからである。
ただし、受刑者には覚醒剤の使用歴などのために幻覚妄想が残遺していることがあり、精神科医はいないよりいた方が良いと言ったところであった。
勤め始めた当初、これほど暇な職場も滅多にないと思うほど仕事がなく、もっぱら精神科関係の本や興味のある論文などを読んで過ごしていた。小此木先生の書籍はこの時期に集中して読んだ。オフの日は大学の精神科医局に行くこともできたので、毎週症例検討会にも参加していた。
当時、症例検討会と言っても、研修医は質問しようにも知識がないので、僕は積極的に質問し研修医をインスパイアするように努めた。今から考えると、まだ卒後7年目くらいだったので、全てのことに通じているわけではなかった。ただし、非常に厳しい職場で3年くらい勤めきれたので、自信だけは持っていたのだろう。この当時のことは以下の記事に詳しい。
医務室には2人のボスがいた。1人は現在の准教授クラスのかなりの経験がある外科医と医師ではないボスである。当時、准教授と言うワードはまだなかった。その頃、現在の准教授は助教授と呼ばれていたので、今の感覚だと混乱する。
ある日、その医師ではないボスに質問した。「無期懲役の人は妙にニコニコしていますね?」
彼は、「それは模範囚でいると、やがて釈放になるのがわかっているからですよ」とやや厳しい声で答えた。
当時、無期懲役でも模範囚であれば比較的短い刑期で釈放されると言う矛盾があった。長い刑期の受刑者との矛盾である。無期懲役囚は、幸運な場合、13年くらいで釈放されることもあると言う話だったが、実際にそのような受刑者がいたのか確かめたわけではない。
当時、死刑ないし無期懲役以外の懲役は20年が上限で、懲役20年とかだとなかなか13年では釈放にならないと聴いた。それを聴き、無期懲役とは死刑の一歩前ではなく、どちらかと言うと不定期刑に近いのか?と思ったほどである。
この矛盾はその後、批判もあったのか改正され、今の無期懲役刑は海外で言う終身刑に近いものとなっている。特に死刑を求刑され、かろうじて無期懲役になった受刑者はまず釈放されない。
死刑は死を持って罪を償うため作業をする義務がないが、無期懲役は刑務所内の作業も付いている。実は無期懲役的な処遇のうち「無期禁錮」なる刑もあるらしい。これは作業の義務がないが、独房の中で運動ができず、いつも看守に監視されているため、無期懲役よりストレスがかかると思う。なお、無期禁錮は内乱罪、爆発物使用罪、爆発物使用未遂罪などの特殊な犯罪に対する刑であるため、この刑に処された人は未だいない。
なお、刑務所での医療業務だが、受刑者は医務室の医師に対してリスペクトがあり、非常に従順で仕事はしやすい。それに比べ、刑務所職員に対してはあまり快くは思っていなかったようである。実際、釈放後、特定の職員に対してお礼参りしかねない受刑者は、その受刑者の出身都道府県まで連れて行き釈放されていた。
僕は県外の関連病院から刑務所勤務に異動したこともあり、住居を探す時間が十分になかった。そのようなこともあり刑務所に勤める職員の官舎に住むことにした。その官舎はすぐに刑務所に行ける距離にあり、歩いて通勤できるのも良かった。当時、まだ独身だったし転居してから気に入ったマンションを探せば良いと思ったのもある。
まだ携帯電話が一般化しておらず、携帯電話を持っている人はほぼいなかった。その携帯電話とは、トランシーバーのような大きさなのである。実はポケベルは既にあったが、刑務所は医師にポケベルを持たせると便利と気づかなかったようである。以下は、ポケベルの話。
僕が刑務所職員の官舎に住んでいたため、刑務所の医務課の夜間の担当職員はかなり助かったと思う。なぜなら何かあった時、僕の固定電話に電話すれば、すぐに来てくれるからである。夜間に呼ばれると言うのは、大変な事態が起こっていることを意味する。
刑務所での業務は、普通の精神科病院とは全く異なるストレスがある。例えば、医務室の机の上には向精神薬を含め薬剤の薬価が記載されている。年間の医療費の予算なるものがあり、なるだけ安く治療せねばならない。この時、ドグマチールが飛び抜けて高価な薬剤なのを知った。
計算してみると、受刑者1人あたり年間5000円しか予算がなかった。この額は基本、健康な人たちなので十分に思うかもしれないが、刑務所内で大きな怪我が何回かあると全然足りない。この処遇を考える時にストレスになるのである。その理由は、他科受診が必要だからである。もちろん健康保険などない。
受刑者を病院受診のために刑務所外に出す時は、必ず看守が数名付き添い同伴する。無期懲役クラスの受刑者がそのような機会に脱走したら大事件である。
明らかに骨折している時は、看守が付き添うのは当然の状況だし、職員もそう思うのでまだ良い。例えば受刑者が、強く頭部打撲していて大丈夫の可能性が高いが、CTを撮った方が良いと思われるケース。これは、もしCTに問題がなかった日には、有限な医療費を無駄遣いしたと言う敗北感が半端ない。
刑務所に勤め始めた当時はそうでもなかったが、時間が経つと、これほどまで暇な職場と、普通とはある意味逆のストレスなどから、自分にとってマイナスにしかならないと思うようになった。
最も重要なことは、精神科医としてスキルの点で上積むことなど出来ないこと。そこで僕は1年で辞めることにした。
結婚当時、嫁さんの家族は刑務所に勤めている精神科医師と結婚したイメージだったらしい。ところが、結婚した途端に刑務所を辞めると言い始めたため、嫁さんの父親と兄が驚いて僕に聴いた。なぜ辞めるのか?と。
僕は、「刑務所は全然面白くないから」と即答した。
彼らは一瞬、会話が止まり、お互い顔を見合わせ、2人で笑い始めたのである。
参考