オッサン(ダンナ)と結婚する前は、
(トルコってどこらへん?ブルガリアの近く?)
イスラムやアラブのイメージすら、とにかく何の知識をも持たなかった
と、今現在自分が暮らすこの辺りの地理すら良く把握せぬ酷いレベル、
ましてや世界史(もちろん日本史も💦)歴史にかなり疎い私でさえ、
後に(紀元前45年頃)ガイウス・ユリウス・カエサル
(シーザー) によって再建され、ローマ帝国内屈指の大都市として繁栄した都市、カルタゴ (現チュニジア) 出身の天才軍師、
ローマ史上最強の敵で、
ローマ帝国を脅かした戦闘像を引き連れて冬のアルプス山脈越えの奇襲や、
現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われるほど完成度の高い戦術など、
一度は耳にしたことがある
その男の名は、
ハンニバル
ハンニバル・バルカ Hannibal Barca
紀元前247年~183/182年
西ヨーロッパ、西地中海におけるローマの覇権を運命付けた、ローマ軍とカルタゴ軍の3つのポエニ戦争。
第二次ポエニ戦争(紀元前218~202年)では、カルタゴの将軍ハンニバルがイタリア半島に侵入し、幾度もローマ軍を破り、一時はローマを滅亡寸前まで追い詰めたものの、最後にはザマの戦い(前202年)で共和制ローマ執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル (大スキピオ)に敗れてしまう。
後に、母国へ戻ったハンニバルは、今度は行政の長スッフェトとして改革の陣頭指揮を執り、政治家としての手腕を発揮し経済建直しを図る。しかしそのうち反ハンニバル派の台頭、カルタゴ元老院の裏切りにより逃亡生活が始まり、クレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命を図るが、
志半ばで最後には自害、
夢(使命)を果たせず散る。
そのビテュニア王国というのが 現トルコのマルマラ海、トラキア、ボスフォラス海峡、および黒海に接する辺りにあったそうで、
Bithyniaビテュニア王国のLibyssaリビッサ
死没したのが、イスタンブール郊外にある
コジャエリ県ゲブゼという街。
Libyssaリビッサは現GebzeゲブゼのDiliskelesiディリスケレスィ
そこには何とハンニバルの墓があるんです。
http://gebze.gov.tr/hannibal-anit-mezari
ハンニバルの墓(1900年) 独 オイゲン・ブラヒト作
<ヨーロッパから見た位置>
大移動ですね…
<トルコ/イスタンブールから見た位置>
(ハンニバルって知っているか)と聞かれた私が、
「ああ、ローマ帝国時代にローマに火をつけた…、じゃないわ、何か猛獣を使って戦った人でしたっけ?」
と、そんな乏しい知識しかなく返答したのにも関わらず、
それでも一応は知っていた私に、
すごく嬉しそうに、
周りのトルコ人は殆ど知らないので💦
(ハンニバルって、信じられないと思うけど、最後はこんなトルコの辺鄙なゲブゼの地に辿り着き、死んだんだよ) と、
それはそれはとても歴史好きな同僚が、
(いつか絶対に訪れてみたいんだ)
と、強く話していた場所。
(近いからいつでも行ける) と つい油断し、
それから暫くして、心臓肥大症で歩けなくなり、
その、少年の頃からの憧れ名将ハンニバルの、
終の地を訪れる夢を果たせずまま、
52歳の若さでこの世を去ってしまいました。
ローマ帝国やハンニバルになんて全く興味が無かった私ですが、
いつか絶対 私が彼に代わって訪れてみようと思います。
海を見下ろす丘の上にひっそりと、
その石碑は存在するそうです。
ハンニバルの実際の没地ですが、古来の言い伝えに基づきこの地で19世紀以降ずっと続けられていた捜索に、1934年にはトルコ共和国建国の父ムスタファ・ケマル・アタチュルクの新たな命により再度辺り一帯の集中的な捜索活動が行われたものの、結局発見・特定には至らなかった為、1981年7月24日にここに記念碑が建てられたそうです。
残念ながらトルコ人はトルコ近代史しか知らない人が殆どで、ハンニバルの事も知りません…
P.S.
世界史上最高の名将ハンニバルに関するウンチク情報が、ここまで省略するか⁉という程端折りまくって数行に収めています💦 ローマ史好きな方大変申し訳ございません…また史実に何か誤りがあった場合はどうぞご指摘くださいませ。
ではでは~![]()
最後までお読みいただきありがとうございます♪
ランキングに参加しています!
よろしければ
クリック
お願いしま~す!
励みになりま~す ♡
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()










