数年前のこと。
知り合って間もない人が
怒っているのを聞いた。
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「こういうイベントするよ!よかったらきてね」と
言ったら
「イベントの日は無理なんだけど
別の日に遊びに行かせて!」と
言った人がいる。
わたしの大事な時間を
平気で取ろうとする。
「あそぼう」って言葉、
簡単に使っているけれど、
わたしには泥棒に感じるわ。
時間にはめちゃくちゃ価値がある。
時間の価値を知らない人は嫌だ
\
と言っていた。
当時のわたしは
パンチをくらったような気分だった。
わたしの中には
ない概念だったし、
そこまでハッキリ言い切るつよさに
フリーズした。
あまりに
衝撃的で、以来、
「あそぼう」って言葉に
慎重に考えるようになった。
知り合って間もない人には
わたしからは安易に「あそぼう」を言わないようにした。
相手を尊重することーを
念頭に置くように心がけた。
ずっと考えながら過ごしていた。
数年経って
「あそぼう」って言葉がダメなんじゃないということがわかってきた。
「友達」と心から感じている間柄では
「あそぼう」と
言われても素直にうれしいし、
わたしからも「あそぼう」って声をかける。
その言葉をかわしているとき、楽しい。
知り合ったばかりの人でも
うれしいこともある。
ただ、
「わたしの時間とらないで」と
一瞬、ほんの一瞬、不快に思うこともある。
長い付き合いの友達同士でも不快に思うことがある。
だけど、不快に感じていても、
口に出してノーを言ったことはない。
用事があれば断れるが、
なければ
「いいよー」って言っちゃう。
なぜ、言えなかったか?
「嫌われたくなかった」から。
「寛容な人」でありたかったから。
誰がみても明らかに嫌なことをされたら、
嫌だと言ってもいい。
でも、わたしが不快に感じているだけの出来事は
言ってはいけない。
一瞬、不快に感じたとしても、
「ま、いっか。なんかされたわけじゃないし」と
ないことにしたり、
「今回だけ。次からは断ろう」と先送りにした。
態度には出てたかもしれないけど
重要なのは
「自分でその気持ちをOKにしているかどうか?」
その一瞬の不快感は
次第に大きくなる。
封じ込めだつもりでも
ある瞬間に
化け物のように増大する。
「この人キライ」に発展する。
昇華した感情はスッキリするけれど
抑え込んだ感情はモヤモヤとなり
小さなきっかけで増大する。
自分の感覚を
無視すると
自分でもどうにもできない爆発が
いつか起きる。
....
どういう場合、
不快に感じるのか?
どういう場合なら
素直にうれしいのか?
見てみたら
とても繊細で
ストライクゾーンが超絶狭い
基準をみつけた。
そして
【繊細で超絶ストライクゾーンが狭い自分はダメ】
という強いきまりがわたしの中にあることが
わかった。
寛容でなければならないー
というルール。
そのせいで
無意識に抑え込んでいた感情がある
つまり、
自己卑下意識によるもの。
....
選んでいいのに。
断っていいのに。
「不快な時は断ればいい」
選択肢はいつもシンプルなんだ。
複雑にしているのは「ねばならない」というルール。
....
微かな不快を
どれだけ
封じ込めてきたんだろう。
一つずつ
たどっていくと
キライ!!ふざけんな!
と
思う前に
不快感や違和感を感じていたことがわかるね。
って
書いた直後
みつけた記事
こういうことやなーと
思ったので記録メモ。