
青空にとてもきれいな富士山でした。
そんな風に
きっと私自身も自分の「あたりまえ」のなかに
素晴らしいものがあるけど
有難さも減って、価値も薄く、ぞんざいに扱って
いるものがあるかもしれない。
「あたりまえ」が「あたりまえ」でなくなったとき
初めてその存在や価値のありがたみを
知るのではもったいないなあ~と思うし
目の前にあるときに
きづけたら、わかっていたら、意識できていたら
実は私たちはもうすでに
満たされていて、暖かいものに包まれていて
恵まれているということに、
なんともいえない充実感を覚え、
有難さが海よりも深く増し、
感謝の心が何倍にも膨らむと思う。
それには
ほんのちょっと見る方向をかえてみるだけで
「気づける」のかもしれない。
ありがたさに気づけたら
口からでてくる言葉が変わる。
態度も変わる。表情も変わる。
まわりが感じるあなたが変わる。
でも本当に日常という言葉のように
変わらない日々の中からは
そういう「あたりまえ」は常時繰り返されているので
気づきにくいのかもしれない。
非日常な出来事だったり、
いつもは行かない場所だったり
いつもは逢わない人との出会いや
普段は交わさない言葉から、
「あたりまえ」はちょっと違う光をあてられる。
先日私もある集まりで
初めてお会いした方々から
あることを褒められました。
それは私にとって別段、特別なことではなく、
いつもやっていること(=それこそあたりまえ)
なことだったのですが、
「訓練の賜物ですか?」とまで言われると
そうなの?なにも訓練なんかしてないぞ?!とも
思ったのですが(笑)
せっかくそういったフィードバックを頂いたので
それからちょっと考えてみました。
どうしてそれは人が褒めるほどのことなんだろうと。
よくよく考えると、
そうか、それは私のこれまでの経験のなかで
自然と繰り返しやってきたり、好きなこととして
好んでやっていることだったなあと。
そしてそれはいつごろからやり始めたんだろうと
さかのぼってみると
もう10代くらいのころかも・・・と記憶のかなたに
私の心は飛んでおりました。
そうか・・・そのくらいからやっていれば(もう30年以上だね)
それは「訓練を積んだ」といってもいいのかもしれない・・と。
自分では意識して「訓練をしている」つもりはなかっただけ。
でもある人からみれば、それは相当訓練をつんだとみなされる。
そういうものって、誰しもあると思うのです。
最近、自分も含めて
人のそういった部分をみていくのが
とても楽しい私です。
それはその人にとって
無理がないし、自然にその人を自由に楽しく
解放して、表現するものだから。
これから桜も咲いて、日差しも暖かくなって・・
それも日本の四季では「あたりまえ」だけど
すごく大切な日本らしさ。
だから尊いそのものを慈しんで、愛せることが
「今ここに生きている証」だなあと思う
今日この頃なのです。