日曜日のブログはバタバタしてて落ち着かなかったね。

 

日曜日に開催した18期アカデミー風景

 

 

ま、落ち着けばいいわけではないし

 

ぼくの人生で落ち着いたことはないし

 

小学生の頃から担任がいくら変わろうと

 

ずっと変わらず通信簿に書かれていた

 

ぼくへの評価というか注意事項は

 

「落ち着きがない」

「ひとつのことに集中できない」

 

というもので

 

ひどい時は

 

担任が変わったのに

 

前任の先生が書いた一文に

 

波線を引いて「引き続き注意が必要」

 

なんていう赤ペンが入っていたことがあった。

 

いまでは「注意欠陥多動性」「ADHD」なんていう

 

名称も一般化したけど

 

昭和の当時はそんなの誰も知らないから

 

とにかくジッとしていないぼくを

 

バシバシ大人たちは折檻してくれた。

(これも昭和ならではだね)

 

 

検索すれば当たり前のように出てくるけど

 

「ADHA」は「発達障害」と言われる。

 

でもさ、ぼくは思うのだ。

 

 

ジッとしている子どものほうが

 

子どもとしては発達に問題あるんじゃないか? と。

 

ジッとできないから子どもなんじゃないかと。

 

 

そもそも20年近くかけないと

 

いっぱしの大人になれない生き物の発達は

 

人それぞれ個人差があるはずだから

 

ジッとしてようと

 

バタバタ走り回っていようと

 

それぞれ生命を賭けて

 

発達しようとしているのじゃないかと。

 

 

そんな子ども時代を経て

 

相変わらずジッとしていられないぼくは

 

発達障害なのではなく

 

まだまだ発達の余地ありだと思っている。

 

 

そんなぼくが人さまのカウンセリングなどを

 

しているところに

 

人生の面白さがあるね。

 

 

ぼくは仕事柄精神科医とも付き合いがある。

 

その正真正銘のかなり著名な精神科医からも

 

有り難いほどハッキリキッパリと

 

「ジョイはADHAだね」と診断されたことがある。

 

 

別にぼくは診断をお願いしたわけじゃないけど

 

向こうから勝手に診断してくれたの。

 

 

大きなお世話だと感じるかと思いきや

 

(へぇ、そうなんだ)と

どこか納得がいき

 

(だから自分はこうなんだな)と

過去の自分と結びつけたりして

 

ちょっとホッとした瞬間を味わった。

 

ははぁん、これだな

医者から病名を告知されると

不思議と安心しちゃったりする心理って

 

と、好奇心が湧いた。

 

 

病気なんて嫌なはずなのに

 

どこか特別感みたいなのを感じたりして

 

自分がうまくいかなかったあたりを

 

理由づけできちゃうから

 

なんか正当化できるんだね。

 

(あの時折檻されたのは、ぼくが悪いんじゃないんだ)

 

みたいなね。

 

 

でも、

 

深層心理的には

 

そこでそんなの受け入れない方がいいんだ。

 

病気になるのは仕方がないけど

 

その病名を“自分だ” と受け入れちゃうと

 

セルフイメージに刷り込まれてしまう。

 

 

自分 = 注意欠陥多動性障害

 

という自分を表す方程式が完成しちゃう。

 

ま、注意欠陥多動性なんていうのは

 

心の中の“ちょっとした個性” くらいに思うのがいい。

 

血液型みたいなもんだよ。

 

 

ぼくの場合は

 

ずーっと発達し続ける個性にしちゃってる。

 

人生で大事なのは

 

どんな病気を抱えているかじゃない。

 

どんなセルフイメージで生きるかなんだよ。

 

 

あれれ、日曜日のことlogしようと思ったのに

 

心の個性の話になっちゃった。