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先日、旅先で友人からからずいぶんと強く責められることがありました。
札幌の友人宅に着いた瞬間、テーブルの上に並んだ料理を見て、
「あー、お腹すいた、美味しそう」
と言ったら、
「まずごめんなさいじゃないの! 失礼すぎる」
と、いきなり怒鳴られたのです。
え、、、、⁉️
なんでこんなに怒ってるの⁉️

既読スルーしていたのは向こうなのに、遅れたのも私が原因ではないのに。
ああ、すれ違いというのは恐ろしいものです。

順を追って書いておこうと思います。
その日、私の乗った飛行機は二時間近く遅延しました。
慣れない土地で移動にも手間取り、着いた頃には予定よりずいぶん遅い時刻になっていました。仕事が立て込んで、ここ数日ろくに眠れていないところへ空港での長い足止めです。到着する頃にはへとへとでした。
何度も遅延が伸びて、遅れることは、その都度LINEで知らせていたのです。
ただし、詳しい理由までは書きませんでした。航空会社の説明は「使用する機材の到着遅れ」というだけで、それ以上のことは私にもわかりません。
さらに、送ったメッセージには既読がつくのに、返事は一向に来ません。
「仕事中で忙しいのだろう、何度も送っては迷惑かもしれない」と、一方的に送るのは気が引けて途中からむしろ連絡を控えたくらいでした。
しかし相手にとっては、そうではなかったようです。
「待たせているなら、もっと事情を説明するべき」というのが、彼女の考える気遣いなのです。私は「忙しいだろうから、しつこく連絡しない」を気遣いとする。
相手は「待たせているのだから、こまめに説明する」を気遣いとする。
この時点で、すでに嚙み合っていなかったのです。
もし逆の立場だったら、私はまず
「大変だったね、ずっと空港にいたの? 腰痛くなるよね。電車座れた?荷物多いのに、疲れたでしょう」
などとねぎらったと思います。本人にはどうしようもないことで責めても仕方がない、というのが私の考え方だからです。
だから、開口一番「まずごめんなさいでしょう」と激怒されたときは、正直なところ、申し訳なさより先に、驚きが立ちました。
心のどこかでは、
「そもそも飛行機が遅れたのは私のせいではないのに、なぜ私がこんなに責められねばならないのか」
とも思ってしまったのも事実です。
寝坊したわけでもなければ、遊び惚けていたわけでもありません。私だって空港で何時間も待たされて、くたくたになっていたのです。
話はそれだけでは終わりませんでした。
「そんな調子だから浮気されるのよ」
「無神経だから相手を逆撫でしてモラハラされるのよ」
「手料理も出せないから再婚もできないのよ」
文句って、言い出すと止まらなくなる
ホルモンでも出るんですかね。
以前渡したお土産が気に食わなかったとか、自分は誕生日当日にお祝い送ったのに私からは当日に来なかったとか、何年も前の些細な出来事までが、次々と蒸し返されました。
さらに、翌日には、私の泊まっているホテルにまでやってきて、同じ話をまた繰り返されるハメに![]()
というのも、飛行機の遅延自体嘘だと思ったらしく
「検索してもそんな遅延情報出てこなかったから、嘘つかれてたって分かって腹立って来た」と![]()
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いやいやいや、、、
ANAの運行状況画面を見せたら「画面偽造したんでしょ」とまで疑われる始末。そんなに遅れて補償もないのはおかしいとかずーっと疑われ続け。
え、、、えええ
どうしたらそんな発想が出てくるのかと妙な感心をしてしまいました。
彼女の言いたいことは
自分が軽んじられている
大切にされていないと思って傷ついてる
です。
違いますよと言ったところで
私はそう感じさせられた、
と、お気持ちの問題で平行線になるやつですね。

私に非がなかったとは思っていません。
昔から合理性を重んじすぎるところがあり、情緒に欠ける無神経さがあることは、自分でも承知しています。
心を無にしてグイグイ進められるから仕事では有利。しかし人間関係においては、傷つきやすい人の気持ちが理解しにくい。それが無神経さとして表れるのかもしれません。

なぜこうなったのかと考えていて、昔の不妊治療のことを思い出しました。
期待をしては結果が出ず、また期待をしては落ち込む。その頃、パートナーにつらい気持ちに寄り添ってもらったという経験が、私にはあまりありませんでした。だから、すべて自分で処理するほかなかったのです。
そのうちに、
「嘆いても何も変わらない(から、心を動かさない)」
と考えるようになりました。
泣いたところで結果は変わらない。「どうして私が」と思ったところで、次の結果がよくなるわけでもない。
ならば、感情に浸るより、さっさと次を考えた方がいい。当時の私には、それが自分を守るために必要な考え方だったのだと思います。
しかし、おそらく感情を殺す訓練をしすぎました。治療が終わったあとも、その思考の型だけが残ってしまいました。
不思議なのは、他人の話であれば、きちんと寄り添えるということです。友人が落ち込んでいれば「つらかったね」と自然に言えますし、共感もできます。しかし、自分のこととなると、それができません。
つらいと思う前に「では、どうするか」で片づけて、なかったことにしてしまう。他人には向けられる優しさが、なぜか自分にだけは向かない。今回、そのことにようやく気がつきました。
私は長い間、「何も解決しない言葉」の値打ちを、ずいぶん低く見積もっていたのだと思います。
だから、今回のことはブログに残してみることにしました。
ゴリゴリ東京で働いてると、ロボットのように
心を無にする方が成功しやすかったりするけれど、
それだけじゃダメなのかもしれない。
それだけキレたり嘆いたり
できる感情のむき出し感が
逆に必要なのかもしれない。
なんて。
ちょうど、今週も移動の多い週末になるので
もう少し考えてみようと思います。




