「愛」は目に見えず、手でもさわれず、ただ感じるしかできません。

しかしを感じた事が無い者はいないでしょう。

は全ての目に見えないエネルギー的な存在と同じで、

ただ感じることでしか実感できないものです。

 

そして、何かを表現するのに、饒舌に言葉を尽くしても、

言いたい事が伝わらないのは、現世でも、霊界交信でも同じ事です。

逆に言葉足らずの人であっても、真心を信じ合える相手であれば、

理解し合い、を感じ合う事はできるし、時には言葉さえ必要ないかもしれません。

私達はただを開いて愛を信じ、感じる事しかできないのです。

愛を感じる力は、自分と相手を「信じる力」であると言い換えても良いでしょう。

 

誰かを愛するという事は、単なる感情ではなく、

信念であり、決意であり、判断であり、約束でもあるのです。

「感情」は揺れ動くものだからこそ、

貫くには「決意」という意志の力が必要になります。

ある「強さ」が無ければ、何事も成し遂げることはできず、

しかしここでイメージするその強さとは、固く厳しいものではなく、

温かく、柔軟性に富んだもの、笑顔を伴う感じのもの。

自分自身をも最高に幸せにしてくれる何かなのです。

 

 

どの様な動植物であろうと、命あるものは一人では生きられません。

生まれてすぐ親からはぐれてしまった自然界の動物は、

そこがどんなに肥沃な地であっても、

食べ物の取り方や生きる技術を学べずに死を迎えるしかありません。

「愛が命を育む」というのは常識で、

例えば、声をかけながら丁寧に水をやった果実が生き生きと生い茂り、

罵倒しながら水をかけていた花が枯れてしまった、

というような実験結果もそこかしこに見受けられます。

 

高度な感情を伴う生き物なら尚更で、大変極端な話では、

古代ローマに有名なフリードリッヒ2世の実験がありましたが、

50人の生まれたばかりの赤ちゃんを母から引き離し、

生きるための衣食住の世話はするが、

スキンシップは一切とってはいけないという、

今では考えられないような残酷な実験を試みたそうです。

つまり目を見る、話しかける、笑いかけるを禁じ、

ミルクと排泄とお風呂の世話だけをしてみたというものですが、

3歳までに49人の子供が死んでしまい、

残りの一人も6歳までに亡くなったという、

恐ろしい結末でした。

 

私達は人と人との間で、生活しながら経験を通して様々な感情を学んでいきます。

始めは喜び、怒り、悲しみというような単純な感情しかわからなかった子供も、

友達を愛しているからこそ、悲しみを伴うを別れを経験したり、

ケンカをするほど仲が良い相手に出会うとか、

相手の幸せを自分の事のように投影する喜びとか、

逆に愛する人を独り占めしたいと思う嫉妬とか、

様々な混合感情が生まれ、それらすべてが混ざり合って、

全てを学びと受け止める究極の愛や、悟りの感情が育っていくのです。

それこそがを育て、人を生かす力の源であると言えるでしょう。

 

 

しかし、とても愛していた人が天寿を全うして亡くなったとして。。

それは的にはとても喜ぶべき事でも、

もう肉体を持ったその人に触れる事が出来ない悲しみは伴います。

 

故人が現世に残した数々の形見の品や思い出は、

時に深い悲しみを呼び覚ますものとして、

封印されてしまう事だってあるでしょう。

しかし、故人はそれを望んでいません。

肉体を脱ぎ捨てた故人は、とても軽やかなエネルギーで、

あなたの隣に今も存在し続けています。

あなたが悲しみという重いエネルギーの鎧をまとっていると、

軽やかなエネルギーはそこに波長を合わせる事が出来ません。

 

同じ波長の音が共鳴して響き合うように、

霊もエネルギー体であり、周波数を持っているので、

あなたはあたかも肉体を感じないかのように軽やかに、

彼らのメッセージを聞き取りに行ってください。

 

どうぞ思い出を悲しみで封印しないで、

いつも喜びと共に彼らを思い出してください。

恐れる事は何もありません。

あなたのその悲しみは愛の深さです。

の思い出でで、故人と共鳴し、悲しみを昇華して、

あなた自身の人生もで満たされますように。