今回から鳥羽城を紹介します。
戦国時代初期に九鬼氏は伊勢北畠氏に
仕えていました。北畠氏の勢力範囲が
弱まると、織田信長の幕下に入りまし
た。
信長が北畠氏を侵攻した際、当時の当
主であった九鬼嘉隆は織田勢を後ろ盾
に、妻の実父である橘宗忠他、付近の
小勢を制圧し、志摩国一円を手中に収
めました。
その後、九鬼氏の九鬼水軍は織田家
(織田信長)の海戦部隊として伊勢
長島の一向一揆の討滅戦において活
躍、石山本願寺攻略戦においては、
第1次木津川口の戦いで、火責めで
敗退しますが、第二次木津川口の戦
いでは鋼鐵で外板を覆った鉄鋼船を
用いて能島村上氏率いる毛利水軍を
ことごとく追い払います。信長没後
は織田信雄に仕えたが、蟹江城合戦
にて羽柴秀吉方に寝返ります
1585年に従五位下・大隅守に叙位・
任官します。九州征伐、小田原征伐
に参加し、文禄・慶長の役では水軍
の主力として功を挙げました。この
ような戦功の結果、紀伊半島の制海
権を与えられ、5万石の大名になり
ます。この後、嘉隆は息子守隆に
家督を譲って隠居しました。
江戸時代には軍記物などで海賊大名
の異称をとります。海賊と言われる
のは悲しいですね。
鳥羽城は九鬼嘉隆が1594年(文禄3年)
に築城し、その後は九鬼水軍の本拠地
となっています。
九鬼嘉隆(1542-1600)
大手門が海側に突出
して造られるという全国でも珍しい形
をしており、この大手波戸水門が出入
り口となっています。
鳥羽城古絵図です。
左下に大型船が描かれています。
古絵図です。
現在のGoogle地図では
鳥羽城跡のGoogle地図です。
鉄道と道路が並行していて、
そこが二の丸になっています。
水門に船を繋いで下船すると
二の丸です。
鳥羽城の現在との重ね図です。
上図唐人門跡は
冠木門が唐人門跡です。
唐人門跡は、妙慶川の河口付近、
船着場として設置された江戸時代
の船着場です。
三ノ丸広場です。
九鬼氏の家紋が張ってあり
ます。
石垣などは模擬整備されて
います。ここは下図現在地
三ノ丸です。
古絵図を拡大しました。
通路も書き込まれています。
赤太線の登城道を書き込み
ました。
大手水門付近古絵図です。
1663年に内藤忠重が入封し
てから二の丸、三の丸を増
設し、近世城郭として体裁
が整ったとされています。
内藤忠勝の時代の1680年に
内藤家が断絶となった際の
作事書に、天守三重とあり、
規模は5間×6間で、高さ
約19.5mであったとされ、
天守下には蔵もありました。
内藤氏は3代続き殺傷事件
により領地没収となります。
江戸幕府の直轄領から土井、
松平、板倉、戸田(松平)
と短期間に城主が替わり、
稲垣が城主となり明治まで
続きました。
その間に鳥羽城は幾度とな
く災害に見舞われています。
宝永4(1707)年には大地
震による津波によって屋敷
や櫓が流失し、石垣や城壁
が大破したとされ、その後
も、寛政4年や安政、嘉永
6年などの津波により被害
が出ました。
明治以降の鳥羽城
明治の廃藩置県により建物
は、「無用の長物」とされて
取り壊され、堀は埋め立て
られ、跡地には旧鳥羽小学
校が出来ました。本丸はそ
の旧鳥羽小学のグラウンド
になりました。その他に、
旧鳥羽幼稚園、鳥羽市役所、
市民文化会館が建設されま
した。造船所も出来たため、
城の遺構は殆ど残っていま
せん。
今回はここまでで、次回に続く
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