昨日の続きです。
今回は東湖神社と大日本史です。
東湖神社です。
藤田東湖を祀る神社です。
藤田東湖肖像画です。
常盤神社の摂社となっています。
昭和18年に創建されました。
藤田東湖
先祖は常陸国那珂郡飯田村中島
の百姓ですが。遠祖は小野篁に
遡るとされますが、真偽は不明
(賢人と名高い小野篁を先祖に
持つということが勉学の励みと
なったそうです。)曽祖父・与左
衛門の代に水戸城下に移り、
商家に奉公してのれん分けを
許され店を開きます。祖父・
与右衛門は水戸城下の奈良
屋町で屋号「藤田屋」という
古着屋を営んでいます。
学問を好んだその次男が、
東湖の父・幽谷で、幼少時
より学才高く神童とうたわれ、
立原翠軒の私塾に入門。
さらに彰考館の館員となっ
て頭角を現し、水戸家の藩士
に取り立てられます。
父の藤田幽谷です。
1806年水戸城下の藤田家
屋敷に東湖は生まれます。
父は水戸学者・藤田幽谷、
母は町与力丹氏の娘・梅。
次男ですが、兄の熊太郎
は早世したため、嗣子とし
て育ちました。
藤田東湖(東湖とは千波湖の東の意)
東湖を号するようになったのは謹慎処
分の解かれた1852年頃です。
通称:虎之助
1827年に家督を相続し、
進物番200石となった後は、
水戸学藤田派の後継として
才を発揮し、彰考館で編集や
彰考館総裁代役などを歴任
します。また、当時藤田派と
対立していた、立原派との
和解に尽力するなど水戸学
の大成者としての地位を確
立します。
1829年の水戸藩主継嗣
問題にあたっては斉昭派
になり、同年の斉昭襲封後
は郡奉行、天保元年には
江戸通事御用役、御用調
役と順調に昇進します。
1840年には側用人とし
て藩政改革にあたるなど、
藩主斉昭の絶大な信用を
得ます。
1844年5月に、斉昭が
隠居謹慎処分を受けると
共に失脚し、小石川藩邸
(上屋敷)に幽閉されます。
同年9月には禄を剥奪さ
れました。
1845年に幽閉のまま、
小梅藩邸(下屋敷)に移
る。この幽閉・蟄居中に
『弘道館記述義』『常陸帯』
『回天詩史』など多くの著作
がなされます。内容は現状
に対する悲憤を漂わせ、
幕末の志士たちに大きな
影響を与えました。
1847年には水戸城下
竹隈町の蟄居屋敷に移
され、1852年にようや
く処分を解かれました。
1853年にアメリカ合衆
国のペリーが浦賀に来
航し、斉昭が海防参与
として幕政に参画すると
東湖も江戸藩邸に召し
出され、江戸幕府海岸
防禦御用掛として再び
斉昭を補佐します。
1854年には側用人
に復帰しています。
1855年に発生した安政の
大地震に遭い死去します。
享年50。当日、地震発生時
に東湖は一度は脱出するも、
火鉢の火を心配した母親が
再び邸内に戻るとその後を
追い、落下してきた梁の下
敷きとなり圧死します。
自身は母親の無事を確認
した後に力尽きます。
墓は光圀が開いた共同墓地に
あります。国学者だけにお寺に
葬られませんでした。
水戸市松本町にある幽谷・東湖の墓
西郷隆盛は東湖のことを、
「聡明で磊々落々の人ではあるが、
話の中に決して切っ先三寸という
ものを抜き放さぬ人であった。人と
話をするに、右に行くやら左に行く
やらその切っ先を見せぬというが
彼の人の極意であった」と言って
います。彰考館で対立していた派
閥と和解したことが、その象徴です。
学者と言うより実務者でした。
2021年大河「青天を衝け」
では、俳優の渡辺いっけい
さんが演じていました。
大日本史寛政の地は
下図左端中央にあります。
大日本史完成の地に行くと
水戸黄門(光圀)が始めた大
日本史ですが、
明治維新で水戸城が新政府
のものとなり、彰考館はこの
偕楽園に移転して継承され
ました。明治39年にこの地
で397巻完成します。
義烈館で展示の大日本史です。
今回はここまでで、明日は義烈館です。
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