昨日の続きです。
今回は大手門から三階櫓跡です。
本丸櫓台です。
石垣はの野ずら積の石垣で、竹中重利
時代のもので、1600年ころのものです。
グーグルで見た府内城です。
下図④の辺りから見た本丸天守台と
その右にイベント用の模擬天守です。
現在地にあった案内板です。
上図④から⑤大手門方向です。
この大手門を抜けて外側から見ると
外側⑥から見た大手門です。
形態は多聞渡櫓門です。
1945年の大分空襲で焼失
しましたが、1966年に再建
されました。
右にカメラを回すと
周囲より大きなかがみ石があります。
廊下橋を渡るとこの鏡石がみえ
ました。
今は埋め立てられて土橋になっていますが、
江戸時代は廊下橋がありました。
⑥から見た到着櫓です。
⑦辺りから見た土橋と大手門です。
この土橋中央の道部分が江戸時代
は木造の廊下橋でした。
堀の水は毎日入れ替わるそうで、
透明できれいな状態です。ガイド
さんの話では、だれかが放流した
ピラニアも住んでいるそうです。
大分大学図書館蔵の1605年の古絵図。
廊下橋付近を拡大すると
下図になります。
1605年の地図です。
廊下橋が描かれています。
土橋の上から西の丸方向です。
宗門櫓とその向こう側には西の
丸角櫓が見えます。
宗門櫓は2階ですが、外から見
ると1階に見えます。
下図⑦から見た到着櫓です。
東の丸南西隅にある到着櫓
は二重櫓で、1945年の大分
空襲で焼失しました。
現在の到着櫓は1966年に
再建されたものです。
もともと海城なので、地盤が
脆弱だったために、石垣の
土台となる犬走が頑丈に造
られています。
⑦から少し⑧方向に行った所から
撮影した、到着櫓と大手門です。
⑦から⑧方向です。
東の丸のもともとは平櫓です。
現状2階櫓なので、行き過ぎた
再建の模擬櫓です。
1966年に建てられました。
下図⑧から撮影した平櫓(現状2階櫓)
と、その右に三階櫓跡石垣です。
三階櫓は1599年に福原直高が
建てた櫓です。1743年の大火で
焼失しました。
福原直高は石田三成の親戚であ
る上に、朝鮮出兵で武将の働き
ぶりを秀吉に報告する役もあった
ので、三成と同様に東軍の武将
達から嫌われていました。
1600年の関ケ原の戦いでは、
最後まで大垣城を守りました。
最後は降伏して切腹させられ
ています。拝領した名刀を渡し
た東軍武将に、助命嘆願して
もらいましたが及びませんでし
た。
解説板です。
今回はここまでで、明日に続きます。
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