今回からは府内城の紹介です。
今日は歴史です。
府内城人質櫓です。(1861年再建)
背後にイベントで天守らしき
ものがあります。
赤い印が府内城の位置です。
(グーグルより)
拡大すると
赤い矢印が府内城です。
さらに拡大すると
現在の府内城です。
鎌倉時代から戦国時代
鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国・
筑後国の守護職・守護大名であった大友
氏は、現在の大分駅東方(府内城から見
ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護
館を築いて本拠とし、この館を中心にして、
府内と呼ばれる市街が形成されました。
府内への侵攻を受けた際には、大友氏
はいずれも府内を捨てて近隣の高崎山
城など詰城に避難しました。府内城とい
う名称は、大分市中心部が中世に府内
と呼ばれていて、大友氏館も石垣のない
ものでした。
安土桃山時代
大友氏は朝鮮出兵で不祥事を起こし、
秀吉から改易を言い渡されます。
秀吉により1597年に府内の領主とな
った、福原直高は府内城築城に着手
します。本丸・二の丸・三の丸を完成
させました。「荷おろし」と言われた
河畔に築城しますが、「荷おろし」で
は「荷落ち」と書いたので、城が落城
するイメージで縁起が悪いと考えて、
地名を「荷揚」と変えました。なので
「荷揚(にあげ)城」とも言います。
石高は12万石でした。
福原直高が築城した三の丸までです。
(大分市教育委員会より)
正室は石田正継の娘で、石田三成の
妹婿でした。そのために1600年の、
関ケ原では西軍に所属し、大垣城を
最後まで守りますが、降参して切腹
となりました。
江戸時代
1601年に2万石で竹中重利が入府
して城主になりました。竹中重利は
府内城造りを継続しました。
加藤清正は大坂に行き易いように、
大分に飛び地を貰っていた関係で、
清正に頼んで縄張りを作ってもらい
ました。また、石垣造りも清正家臣
に手伝ってもらいました。大工や
瓦職人も上方から招いています。
竹中重利時代の府内城です。
ピンクの線で囲ったところが
現在も残っています。
(大分市教育委員会より)
1605年には外堀が完成します。
1608年に外堀周辺施設や京泊
という港も出来て、本丸天守には
4層の天守が造られて、府内城は
11年かけて完成しました。
1605年の古絵図です。(現地案内板)
1634年に重利の子供の重義が
長崎奉行時代の不正のために、
切腹させられて、2代で改易とな
ります。
日根野吉明が2万石で入城します。
1656年に 吉明が嗣子なく没し、
日根野氏は廃絶します。臼杵藩
主稲葉信通が城代となります。
1658年に大分郡2万石を領す
る、松平忠昭が高松陣屋より
入城する。以後、明治維新まで
大給松平氏が居城とします。
1743年に大火により天守を含
む大部分の建造物が焼失します。
以後、天守は再建されませんで
した。
明治維新以後
1872年に城内に大分県庁が置かれる。
1919年に県庁の拡張工事のため内堀
の一部が埋め立てられます。
1945年に大分空襲により櫓数棟が焼失
する。
1965年に東丸着到櫓・二重櫓、西丸二
重櫓、大手門を復元。
1996年に西の丸と山里曲輪を結ぶ廊
下橋を復元。
2006年4月6日に 日本100名城に選定
されました。
現在の府内城です。
今回はここまでで、明日に続く。
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