今日からは丸岡城の紹介です。
2018年3月15日に訪問しました。
1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前一帯を領していた柴田勝家の
甥である勝豊により築城され、柴田勝豊が城主となります。
1576年築城前の城山には神社がありました。(現地資料より引用)
丸岡城天守です。古い形式の望楼型天守で、石垣が野ずら積みで、
天守が掘っ立て柱で建てられていることから、日本で一番古い天守
と言われます。古文書などの証拠があれば国宝ですね。
1582年(天正10年) 本能寺の変の直後にあった清洲会議により、勝豊は
近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を
城代とします。このために勝豊は秀吉方として賤ヶ岳の
戦いを乗り切っています。
1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされた
後は、越前は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主と
して青山宗勝(修理亮)を置きました。
1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣と
なっていた、青山宗勝が支配しますが、関ヶ原の戦いで
敗者である西軍方に味方して改易されます。越前国に
は勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城
には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城
します。
1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚します。幕府よ
り附家老として福井藩にいた本多成重が4万3千石で新
たな城主となります。
1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後
配流となり、福井藩に減封などの処分が下されます。同
時に本多成重は福井藩より独立。大名になり丸岡藩が
成立します。成重の大坂夏の陣での手柄が認められた
ようです。
1695年(元禄8年)4代目の本多重益のとき、丸岡藩でお家騒動が起こ
り、幕府の裁定により改易となります。後釜に有馬清純
が、越後国糸魚川藩より5万石で入城しました。以後、
有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えました。
江戸時代後期の丸岡城です。
グーグルより引用の地図です。江戸時代の地図と同じ右が北です。
現在は堀が埋め立てられて、さらに、二の丸・三の丸が町屋になっ
ています。
これも右が北の絵図です。
1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体され
ます。門などが競売で払い下げられています。
1901年(明治34年) 売れ残った天守は、4人の方が現在の価値で30
万円くらいで買ったそうですが、高い石垣の上にあり取
り壊しの費用が無いといい、丸岡町により買い戻され
解体を免れ、天守が公民館となり城跡は公園となりま
す。本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期ま
での間に、徐々に埋められて宅地として売りだされまし
た。
1948年(昭和23年) 天守が福井地震のために倒壊します。
1950年(昭和25年) 文化財保護法施行により天守は重要文化財に
指定されます。(戦前は国宝でした)
1955年(昭和30年) 倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復
されました。その際、最上階の窓の造りが引き戸から
突き上げ窓(蔀戸)に改造されています。約85%は元
の倒壊材を使っています。
1990年(平成2年) 「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定
されます。
2006年(平成18年)日本100名城(36番)に選ばれました。
2017年(平成29年)国宝にしたいと地元選出の稲田朋美防衛大臣に
陳情するも、福井地震の時に古文書が燃えて無かっ
たために証拠無しで重要文化財のままです。福井地
震が午後5時頃で、夕食の支度で火を使っていた時
に起こり火災が古い家を焼いたのが残念です。
現在堀の復元を計画中です。
美人で可愛いと言われる、稲田朋美元防衛大臣です。
北陸地方で現存する天守は丸岡城のみです。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた
古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている。
独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せる
ような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情に
より葺かれています。
丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てる
こととなります。城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる事を条件に
人柱となる事を申し出ます。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、
天守の工事は無事完了しました。しかし、柴田勝豊はほどなく長浜移封となり、息子を士分にす
る約束は果たされませんでした。それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったといいます。
毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼びました。
現在城内にはお静の慰霊碑が残っています。
野ずら積みの高い石垣です。
柴田勝豊はお静の息子を、直ぐに武士として取り立てられる
のに、そうせずにさらに、長浜で叔父の柴田勝家を裏切るな
ど、軽い感じの武将ですね。勝家は同じ養子でも柴田勝政を
優遇して、武士に向かない養子の勝豊を冷遇したといいます。
1582年12月に羽柴秀吉が大軍をもって城を囲むと、勝豊
は大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返ります。
体も弱かったのか賤ヶ岳直前に病没します。
今日はここまでです。明日に続きます。
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