昨日の続きです。
登城口から登りました。
登城道を少し登り振り返えると
登城道を少し登り振り返り見たところです。この坂の下が登城口です。
右端が岩村山荘です。
1718年の岩村城の古地図(下半分)です。
この古地図で番号順に紹介します。
少し登ると左側に藩士の屋敷跡があります。
岩村藩は藩主御殿を本丸から山麓①に、
1601年に移動させました。平和になり山の
上で住むのは不便という理由からです。
なので、藩主御殿より藩士の屋敷の方が
高い所にありました。
古地図②の藩士屋敷跡です。右の石碑が下田歌子歌碑です。
下田歌子の生誕地です。
左側に下田歌子の説明板があります。拡大すると
下田歌子の説明板です。
③の下田歌子の勉学所の門です。
③の下田歌子の勉学所です。父の書斎でした。
③の下田歌子の勉学所の解説板です。
藩校の知新館に女ゆえに入学出来ず、
祖父と父の書物を読みあさり、高い教養
を身につけました。後に、実践女子学園
を創設しました。
三好学の銅像と解説板です。
解説板を拡大すると
解説板です。小学校卒業後に師範学校を出て、
土岐小学校の先生となりますが、後に東大を出
て生物学者となりました。環境保護活動の先駆
者です。
さらに登り下を見ると
左が下田歌子の勉学所です。
ここから木曽の御岳山が見えました。
木曽の御岳山です。300mm程度のズーム撮影をしています。
さらに坂を上ります。
左端が登城道です。大きな木はヒトツバタゴです。
花を拡大すると
ヒトツバタゴの花です。別名はナンジャモンジャノ木とも言います。
日本において本種は希少種のひとつであり、絶滅危惧II類 に指定されています。
天然での分布域も狭く、長野県、愛知県の木曽川流域、岐阜県東濃地方および
長崎県対馬市に自生するだけです。
長くなるのでもう一度、1718年の岩村城の古地図です。
藤坂です。古地図②から⑥を藤坂と言うのは、
岩村城の最初の築城者の加藤景廉の妻が、
実家の紀州藤城村から持ってきた藤が大木
になったという伝説に因んでいます。
雨水を排水するための溝があります。
この辺りが⑤の初門と言われる辺りです。敵が一気に登れないように
S字形になっています。有事の時は仮設の門をもうける場所でした。
初門の解説板です。小雨が降ったり止んだりで、解説板が雨で濡れています。
さらに登ると
⑥の一の門跡の手前です。
この辺りに⑥の一の門がありました。古地図に描かれたように
櫓門とその脇に単層の櫓がありました。
右側の石垣が崩壊しそうなのでコーンが置いてあります。
長くなるのでもう一度、1718年の岩村城の古地図です。
これらの石垣は、森蘭丸や忠政の城代となった森氏家老の各務元正が
約17年を費やし今の石垣を造りました。各務元正(かがみもとまさ)は、
美濃に生まれました。元正の母は土岐頼芸の妹にあたる人物で、各務
氏は土岐家では重臣でした。土岐家が没落後は斎藤氏に仕え、斎藤氏
の没落後は森家に仕えています。浅井・朝倉連合軍と戦い主君森可成
とその長男可隆が戦死した状況下、1000人の手勢で織田の援軍到着
まで、宇佐山城でよく防戦し、連合軍は結局、宇佐山城を陥すことが出
来ず、城を守り抜いたのが各務元正でした。
さらに登ると
下の古地図にある⑦の土岐門跡が見えてきます。左側は屋敷跡です。
長くなるのでもう一度、1718年の岩村城の古地図です。
石畳の先に⑦の土岐門があります。
⑦の土岐門の解説板です。土岐氏を破りその城門を奪って、
ここに移築したという門です。
⑦の土岐門が移築された、現在の徳祥寺山門です。(ガイドさんが持っていた写真です)
左下の指はガイドさんの指です。
⑦の土岐門跡です。
土岐門址から下を見た所です。
下の屋敷跡には休憩所が出来ています。
長くなるので今日はここまでにします。この続きは明日UPです。
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