昨日の続きです。
織田・徳川連合軍3万8千が、長篠城の後詰にきて、
設楽原に陣をひきました。火縄銃数千丁と馬防柵用
の丸太を持参していました。信長自身が丸太を運ん
だとの記録もあります。
信長は石山本願寺との戦いで、雑賀衆鉄砲隊と戦
い、鉄砲の威力を知り、堺や国友で家臣達にも大量
の鉄砲を購入させます。鉄砲の数を家臣に割り当て
たといいます。3千丁という鉄砲(信長自身1000丁)
が装備できたので、武田との決戦にのぞんだと考え
られます。
設楽原の織田・徳川軍陣地は
設楽原に再現された織田・徳川軍馬防柵が見えます。(2017年5月25日撮影)
地元ボランティアの方々が地主に頼んで、土地を借り
て一部だけ再現しました。鉄砲の有効射程はこの写真
を撮っている辺りまででした。
上の写真の右側は
右側です。この丘の裾辺りも馬防柵が並んでいたと考えられます。
次に、左側は
左側方向です。こちらにも馬防柵が並んでいたと考えられます。
正面を拡大すると
ズームで拡大して撮影しました。
信長は多くの兵を丘の背後に隠して、軍勢を少なく見せたそうです。
織田・徳川軍陣地の反対側の武田軍陣地は
信玄台地が見えます。ここから武田軍が攻撃しました。
鉄塔の背後に勝頼の本陣がありました。
設楽原のグーグル地図より引用です。
1575年5月20日の武田本体は長篠城の包囲を解いて、
設楽原に移動します。
設楽原の地図です。織田・徳川連合軍は馬防柵を造り、
待ち構えました。武田軍が信玄台地とある辺りまで移動
して来ます。
織田・徳川軍は長篠城に残る武田軍を攻撃して、長篠
城を開放するために、徳川は酒井忠次を大将として、
別動隊3000人(信長の馬廻り鉄砲500丁を含む)を
迂回させて、長篠城救援に向かわせます。
設楽原合戦のようす。(ガイドの大林輝久氏作成の図)
次に、犬山城主成瀬家が戦後70年ほどして、江戸時代に
作成したのが、有名な「長篠合戦屏風図」です。ただし、こ
の絵図にはいくつかのバージョンがあります。成瀬家のも
のが原本かと言われます。
その一部から解説すると
これが初めの設楽原現場写真を絵図にしたものです。(ガイドの大林輝久氏作成の図)
この屏風図を作成させた成瀬家の、当時の武将成瀬正一も描かれています。
陣代の武田勝頼と側近が攻撃を主張するなか、馬防柵と
大量の火縄銃を見た、馬場信房(60歳)は決戦を避けよと
主張しますが、軍議で武田勝頼の主張が通り、決戦するこ
とになり設楽原に移動します。武田軍の後方にいた勝頼や
側近は、設楽原の現場を直接見なかったための誤判断と
考えられます。信長は軍勢の多くを、丘の背後に意図的に
隠したので、判断の間違いを生んだ原因と考えられます。
また、馬防柵付近の鉄砲も、戦闘直前まで隠していたと考
えられます。
織田・徳川軍も家臣の鉄砲隊が迎え撃ちしますが、3段構
えの連射は無かったようです。また、武田軍も家臣が徒歩
の部下とともに攻め込みました。武田軍にも騎馬ばかりで
構成された騎馬隊は無かったようです。また、武田軍の馬
はポニーのような小さい馬でした。信長方よりも20cmも
背が低いそうです。足腰が強い馬で、山の行軍に向いてい
たそうです。馬を降りて竹製の盾を持って攻め込むことも
あったそうです。6~7時間程度の戦いでした。
1万人ほどの武田軍に、2千5百丁の鉄砲で打ちかかると
すれば、数発撃っただけで、武田軍には大きな被害が出た
と考えられます。鉄砲の三段打ちはなかったけれど、撃ち手
と弾込め手を分業にしていました。
この戦いで、「真田丸」で有名な真田幸村の叔父さん2名
も前田利家隊の攻撃で討死にします。それで幸村の父が
真田家を継ぎました。
馬場信房は敗戦濃厚になると、丸山に陣取って動きません
でしたが、武田軍が敗走すると、殿を務めて討死します。
織田信長はこの馬場信房の行動を褒めたと言います。
次に、織田・徳川連合軍が武田方の武将の首を洗ったと
いわれる、首洗い池です。
ガイドさんが子供の頃は、山中で周囲に人家もない池でした。
打ち取った首をここで洗って、きれいにして上司に差し出した
そうです。
明日は長篠の戦いでの、落ち武者のこぼれ話です。
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