昨日の続きです。
今日は天保山からです。
木津川と並んで大阪湾から大坂市中へ遡る二大航路のひとつ
であった安治川は、当時は淀川の本流にあたり、淀川が運ぶ大量
の土砂を浚渫する必要が生じます。洪水防止と市中への大型船の
入港をしやすくする目的で、1831年(天保2年)から約2年間かけ、
安治川では「天保の大川浚」とよばれる浚渫(しゅんせつ)工事が
行われます。
大坂町人の熱の入れようは相当なもので、大坂町奉行指揮のもと、
延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれた浚渫工事は、工事自体が
お祭り騒ぎだったと伝えられています。浚えられた土砂を安治川河口
に積み上げられてできた築山は十間(約20m)ほどの高さがあり、
安治川入港の目印とする意図がありました。そのため当初は目印山
(めじるしやま。目標山とも表記)と名づけられたが、のちに築かれた
時の元号から天保山と称されるようになります。
天保山の浮世絵です。灯台代わりになった天保山です。
また、この浚渫工事によって天保山の周囲に町が出現します。海岸
べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて
茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となります。当時の舟遊
びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵に描かれています。
江戸時代は大坂町奉行の直轄地ですが、1871年(明治4年)には
西成郡天保町となりました。
天保山の浮世絵です。
「天保山末廣橋月夜の図」浮世絵です。行楽地として栄えました。
天保山の浮世絵です。天保山は大阪の名所になります。
高度経済成長後、地下水のくみ上げで天保山周辺の地盤沈下が起こり、
1971年に7.1mだったのが、1977年には4.7mまで標高が低下しま
す。1993年年以降では4.53mとなっている。1993年の地形図から山
名が抹消されますが、地元からの要望によって1996年に再掲載されま
した。 2014年4月の国土地理院による調査により標高3mの山、日和山
(仙台市)の認定により、2番目に低い山となりました。
安政南海トラフによる大地震で、浸水した地域図です。
絵図の範囲赤枠とは下図のことです
安政大地震による浸水図です。(北が下)
江戸時代に大地震が来た時に、船で海に逃げた人がいたようで、
津波が来て大勢が死んだそうです。なので、大地震の時は船に
乗ってはならないという石碑があります。大地震の後は津波が
来ると認識されていない状態でした。
もとは戦国時代の海外貿易で使われた大型船です。
こういう大きな船なら地震でも安全と考えたのでしょう。
北前とは日本海の意味で、日本海を走る船だからという説などがあります。
18世紀のはじめごろになると、西廻り航路が東廻り航路にくらべてさかん
に利用されるようになりました。というのは東廻り航路では太平洋側を北へ
向かう黒潮の流れにさからって走らなければならないため、当時の船では
航海がたいへんだったからです。また、大型船であるために、西廻り航路
のほうが荷物を安く運ぶことができたからでした。それまでは敦賀から鯖
街道を通り、琵琶湖は船で運び、大津からまた陸路で京都に運びました。
それは荷物の積み替えなどで大きな手数料がかかりました。
1868年1月鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川幕府は、徳川将軍が
江戸に逃げてしまい、大坂城は長州藩兵の砲撃で炎上しました。
新政府軍の仁和寺宮大将軍が、焼けた跡の大坂城を視察した図です。
自分を誉めまくるオウムのマイちゃん
の動画をお借りしました。(70秒)
今日はここまでです。明日から明治時代F7・8階の紹介です。
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