恩田木工民親(おんだもくたみちか)の嘘をつかない藩政改革 | みどりの木のブログ

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3日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今日は松代藩の藩政改革で、領民窮乏・武士達の

腐敗を正し、意識改革に成功した恩田民親の紹介

です。

真田邸の冠木門から外を撮影しました。(真田公園)

この道の先の左側に、恩田民親の屋敷がありました。

 

ここに粗末な恩田屋敷がありました。

 

真田公園の中に恩田の屋敷がありました。

 

恩田木工民親の現地解説板です。

 

恩田 民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年)~宝暦12年

1月6日(1762年1月30日))は、江戸時代中期の松代藩家老

です。官名は木工。恩田木工(おんだ もく、「杢」とも記される)

として知られる。松代藩家老として1千石を知行する恩田民清の

長男として、松代(現・長野県長野市松代町)に生まれる。幼名

は佐吉。享保20年(1735年)家督を相続。延享3年(1746年)

家老となります。松代藩の財政は3代藩主真田幸道の時代より

徐々に困窮し、民親が家督を相続した頃にはかなりの財政難に

陥っていました。寛保2年(1742年)に松代城下を襲う大水害

(戌の満水)に見舞われ、本丸も土砂で埋まりました。復旧の

ため幕府より1万両の借財を受けます。そこで藩政改革のため、

5代藩主の真田信安は小姓より登用した、原八郎五郎を家老

に抜擢し藩政改革に当たらせます。原は享保14年(1729年)

より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲します。

さらに、猶予されていた100石未満の藩士からも知行・俸禄

の半知借上をおこないます。また、領民より翌年・翌々年分の

年貢を前納させるという藩政改革を実行しました。しかし、これ

が家臣の反発を招き、延享元年(1744年)足軽のストライキ

(サンピンと言われる3両1分の年収しかないような下級武士は、

現代では年収60万円ほどでした。これを半分にされたら生活

出来ないと考えて、藩政改革に反対したのでしょう)や農民の

一揆を招きました。宝暦元年(1751年)に原八郎五郎を罷免し、

代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門を勝手方として召

し抱え、財政再建に当たらせます。しかし、厳しい改革は農民

の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる、藩内初の

大一揆が起こったので、田村は同年に失脚します。
原や田村の時代には、贈賄を行った者は納税が目こぼしされ

たり、商人からの寄付の一部を横領するなどの汚職が横行し

ます。汚職の横行により藩内の秩序は乱れていました。
宝暦2年(1752年)信安の死により藩主となった真田幸弘に

より、宝暦7年(1757年)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜ

られ藩政の改革を任されます。藩政自体は概ね原八郎五郎

の政策を踏襲しますが、養蚕・開墾などの新規事業を奨励し

真剣に実行します。

真田公園にある恩田木工民親の銅像です。

彼の墓の紹介は長国寺紹介の時にします。

 

質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止な

ど前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組みました。また、

文武学校の前身の、宝暦8年(1758年)藩校「文学館」を開

き文武の鍛錬を奨励します。藩財政自体は改善半ばですが、

民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・

領民の意識改革に成功します。しかし、改革を始めて5年後、
宝暦12年(1762年)正月に病を得て死去。享年46でした。

彼の意思は、藩主幸弘や、民親の妻の弟である望月治部

左衛門により受け継がれました。後世松代藩士馬場正方に

よって書かれたとされる『日暮硯』は、半知借上を廃止した

などと、民親の仁政を讃えた著書でした。しかし、半知借上

は民親の時代はもちろん幕末まで続いており、下級藩士の

知行・俸禄の半知借上を免除したに止まりました。岩波文庫

の「日暮硯(ひぐらしすずり)」は恩田木工の業績を記録した

短い小冊子にすぎませんが、全国的に流布しており、​二宮

尊徳も読んでいたと言われます。

                 (ウイッキペディアなどより引用)

 

 

私はいつもいくつかの資料を見て、調べているのですが、

ヤフーブログのさざんかさん(現在休止中)が40年前読

んだ雑誌記事(小説?)の転載をしていました。なかなか

いい文章なので、以下に再転載をします。

「九代将軍徳川家重の頃、信州松代は藩主真田信安の政治が

ルーズで悪臣がはびこり、贈収賄が横行し、そのうえ千曲川の

洪水が打ちつづき、地震の被害も大きく、財政は極度に窮乏して

いた。信安の子幸弘が松代十万石を継いだとき、まだ十三歳の

少年だった。しかし、この藩主がずば抜けて英明だったので、

十六歳のとき、恩田木工を登用して藩政の改革と財政の立て直

しを断行せしめた。このとき木工は藩の重役の末席にあり、まだ

三十九歳だったが、この人物を見込んで藩政を一任し縦横に腕

をふるわせたのは名君の器量というべきであった。

藩主幸弘は恩田木工登用の腹をかため、江戸表にて親族会議

を開いて承服せしめ、然る後早飛脚をもって重臣らを非常招集し、

その際恩田木工を必ず同道せよとの命令を発した。


この評定の場で幸弘は、自分も若いし恩田も若いので、汝ら老臣

の協力が必要であると言って、一同を納得させた。このとき恩田

は、この大任には堪え難いと答えて辞退申し上げたが、幸弘の

言うには、「わが藩の窮乏は幕府に知れわたっており、たとえ汝

の力及ばずして財政の立て直しができなくても、汝の失態には

ならぬ。この際、辞退に及ぶは不忠というものであろうぞ」と。

そこで恩田は一大決心をして、「この役をつとめるには、ここに

お集まりの重役や御親類が私の申すことにたいし、そうではな

いと異議を言われてはなにもできませんゆえ、拙者の申すこと

に背くまじきことを書付で提出願いたい。そのかわり拙者に不忠

の儀があれば重罪に処していただく旨の誓紙をお渡しする」と

提案し、藩主の前でこれを実行した。

恩田が信州に帰って、第一にやったことは何であったか。藩政

は紊乱(びんらん)し、百姓一揆が頻発し、この時代にはめずら

しい下級武士の同盟罷業まで起こっているまっただ中で、彼は

先ず何から手をつけようとするのか。

親類及び家の子郎党を一人残らず集めて、ことの次第を述べ

「このような大任なれば、一同是非なきことと覚悟されたい。

すなわち、先ず拙者の女房には暇をつかわすゆえ、直ちに実

家に帰るがよい。次に子供は勘当するゆえ、いずれへなりとも

立ちのくがよい。なお、親類は以後義絶するゆえ、さよう心得

てもらいたい。最後に家来どもには残らず暇をくれるゆえ、ど

こへ奉公しても勝手である」と申しわたした。

親類衆は合点せず、「御内儀、子供衆、家来などに、いかな

る不届きがあって暇つかわされ候や」と詰め寄った。
「いや、不届きは全くない、けれども、これから拙者のなさん

とすることに邪魔になるから離別するのでござる」
「木工どのには狂気なされたか。たとえ破滅寸前の当藩とは

いえ、大任を仰せつかっただけで何の不始末もないのに親類

を義絶し、女房を離別し、子供を勘当し、家来に暇を出し、以

後はただ一人で暮らす所存とは、いよいよ以て狂気の沙汰で

ござる」
「いや、狂気してはおりません。ただ役職にたいして邪魔にな

るだけのこと。一人になったあとは、誰か召使いをやとって暮

らすことに致しましょう」

このとき、恩田夫人が口を開いて、次のように言った。彼女は

松代藩の家老、望月治部左衛門の娘である。
「主人の役職に邪魔ということなら、離別はやむを得ません。

ただ、どのようなことで邪魔になるかをお話くださいませ。それ

を得心させていただいたら、私は覚悟いたします。さもないと、

親許へ帰ったとき、何と申してよいかわかりません。子供にも、

わけを話して、そのうえで勘当してくださいませ」
彼女は、こう言って涙を流した。

「わけを話したとて一同得心はすまいと思ったので、何も言わぬ

が決心だったが、そのように言うなら、打ち明けましょう。拙者は

以後、どのような事情が生じても、虚言(うそ)は決して言わぬこ

とにしました。それを先ず藩の内外に宣言せねばなりません。

ところが、私に最も近い女房、子供、親類、家来が虚言を一つで

も言ったら、あれを見よ、木工の申せしことも、今までの通り信頼

できぬと言われるにきまっております。そんなことでは、改革など

思いも及ばぬことゆえ、つらいけれども義絶の決心をしました」
「もうすこしわかるようにといわれるなら、たとえばわが家では毎

日飯と汁だけ食べるつもり、また着物は今まであるものが使え

なくなったら全て木綿にするつもり、そうなれば、みなみな少し

は虚言を言って、こっそり何か食べたかろうし、なにか木綿以外

のものも着たいだろう。虚言を言わぬことは、なかなかむつかし

く、常人にはとてもできぬことでござる」
このとき夫人が言われるには、「そんなら、以後虚言は決して

言わず、飯と汁以外は食べず、木綿以外は着ないことにすれ

ば、離別しないでも御政治向きの邪魔にならないでしょうか」
「それが出来たら、邪魔にはならぬ」
「そんなら、私どもはそれを必ず実行します」
「いやいや、考えてみるがよい、家来どもに暇を出したら、

自分で水を汲み習い、自分で飯を炊かねばならなくなるぞ」
「はい、私は今日からそれをいたします」
「そうまで言うてくれるなら、女房を去る理由はない。しかし、

子供はそうはいくまいから、立ち去るがよい。路銀は相応

にやるから、当分は困らぬ」
「御父上様、私も虚言は言わず、決してかげでうまいものを

食べたりしません。どうぞ勘当は御許しください」
さて、家来たちの申すよう、「私共も決して虚言を言わない

ことに致します。飯と汁とだけではいやだと言って暇をいた

だいたとあっては、どこへ行っても使ってくれるところはあり

ません。どうぞ御慈悲を以て、今まで通りお抱(かか)えくだ

さいませ」
「それ程に申してくれるなら、今まで通り働いてもらい、給金

も従来の通りにする」
「いいえ、給金はいただかなくても、食べるものさえいただけ

ば結構でございます。着物は持っておりますし、着れなくな

ったら旦那さまの古着なりとも拝領いたしますから。御困窮

のことは私どもも知っておりますから、御給金はいただきま

せん」
「それには及ばぬぞ。拙者の知行は千石だ。飯と汁だけに

すれば不如意はなく、残りは御上に差しあげるだけだ。

その方どもも、妻子を養わねばなるまい。給金は受け取っ

てもらわねばならぬ」
ここにおいて、家来たちは涙を流して喜び、「重々有り難き

仕合せに存じ奉り候」と起請申し上げた。

かくて親類の人々も「木工どのがそれほどのご決意なら、

わが家でもその通りにいたす」と言った。これに対して木工

が言うには、「それはありがたい。それなら義絶せずとも相

すむ。しかし、御家内まで飯と汁だけにせずとも、ただ虚言

さえおやめになったら拙者の邪魔にはなりません」 そこで、

一同は「それはまことに忝(かたじけ)なく存じ奉る」と言って、

すべての合意が成り立ったのである。

この一段の終わりに「右の通り、江戸より帰国すると直ち

に自分の親類を最初に堅められしは、前代未聞の賢人なり」

とある。
 一同が村に帰って百姓たちを集め、このたびの御改革は

これこれしかじかと伝えるや、どの村でも大へんな喜びで、

あの無法な年貢取り立ての役人どもが、今後一人もやって

来ないだけでもどれほど助かるかわからないのに、恩田

木工さまは決してうそは言わぬと誓いをお立てなされ、

たびたびの苦役も取りやめにすると仰せられたからには、

恩田様を切腹させてはならぬぞと一決した。明年、明後年

の年貢まで取り立てられたものも、ここは我慢して帳消し

にし、以後は催促されずともきちんと納めることにしようと

いうのである。

次には今まで役人のした悪事、その他道理に合わぬこと

を書き付けにして、密封したうえで差し出せとの沙汰であ

る。皆々小躍りして喜び、永年の意趣を晴らすはこの時

とばかり、書いたり書いてもらったりして差し出し、恩田様

が年貢のことで御心配であろうから、早々に参上して全て

承服の旨申しあげようということになった。「誠に闇の夜

に月の出でたるここち、胸の曇も晴れて、これより行く末

安楽になるべしと、悦びいさまぬ者こそなかりけり」とある。

名主、長百姓などが藩の役所に行って、仰せ出された趣

きは百姓一人のこらず承服にて、御政道にお困りなら二

年分でも納めたいとの申し出を伝えた。恩田木工はその

申し出が、御前に達したらどんなに御喜びであろうと落涙

して、それには及ばぬと言った。
このあたりの機微は、真心の通じ合う消息である。いか

ほど声を大きくして国民のため、人民のため、苦しむ者

のため、と言っても、今の世の政治家のように実は人気

取りの票集めであっては、みんなが肌で知っているのだ。

そのとき恩田は、次のように述べた。――さて、家業油断

なく精をだすべし。これをおろそかにする者は天下の大罪

だ。精を出して余力があったら、どんな楽しみをしてもよい。

浄瑠璃、三味線もよいし、賭博でもかまわぬ。賭博は日本

中どこでも御法度だから、これを商売にするものがいたら

処罰せねばならぬが、ただの慰みにするぶんには人に

かくれてやらずとも堂々とやってよい。
もう一つ言いたいことがある。よく聞いてくれよ。神や仏

の信仰がない者には、とかく災難が多い。もし安楽を願

うなら、神仏を心から信仰して現当二世(現在と未来)の

安楽を祈るがよい。拙者がこう言っておったと、みんな

に伝えてくれよ。

藩主・真田幸弘は、報告を受けて大いに喜び、恩田に

向かって財政立て直しの見込みが立ったのは汝の大功、

「金石に銘すべき忠勤なり」と言った。
次には百姓たちの書き付け(護符)を、どう処理したもの

か。恩田はこれは拙者の見るべきものでない、殿さまが

密々に御覧になるものだと申し渡した。後になってあの

不正事件はどう裁いてくれる、などという葛藤の発生を

未然に防いだのである。
幸弘はこれを見て驚いた。これほどの収賄や結託や

強要や暴圧があるのかと、恩田にも見せて対策を問う

た。このときの恩田の答えは非常に面白い。面白い

ばかりでなく、後代にわたって大光明を放つ金言であ

る。
――かような悪事を働くには、よほどの器量がなくては

なりませぬ。この器量を善い方に使えば、ひとかどの

御用に立つ者であります。なかには死罪にもすべき不

届き者もおりますが、思うにこれは使いよう次第で善に

も悪にも強くなるものゆえ、わが君はこれらの者どもを

召しだされて、随分とお顔をやわらげ、このたび木工

に政道の儀を申しつけたが、一人では行き届くまいか

ら、その方どもは以後木工と肌を合せて木工を助ける

相役を勤めよと仰せつけて下さい、と。
それはゆくゆく汝の害毒になるやも知れぬぞと幸弘

は言ったが、恩田は是非にとお願いして実行してもら

った。すると、これらの不届き者はこっそり集まって、

本日殿さまからじきじきに恩田殿の相役を仰せつかっ

たのは恩田殿の取り計らいであろう。護符をご覧に

なった以上、重き罪はまぬがれぬところ、この頃は

夜も眠れなかったのに、それをとりなして下されたは

恩田殿にちがいない。かくなる上は、心を入れ替え、

恩田殿の羽翼となって忠勤を尽くすよりほか生きる

道はござらぬ、と話し合った。
これより、恩田木工の相役たちは、よからぬ頼みごと

や相談を持ち込む者があっても、これに加われば身

の破滅と思い、一切受け付けなくなったので、恩田

が目を光らせなくても、役所では「盗人はなくなりけり」

とある。

慰みには博打も構わぬと言って万事をゆるめ、窮屈

らしいことは全く申し渡さなかったが、自分と家族や

家来たちは身を堅く保ち、隠れて贅沢するようなこと

は一度もなく、学問と武芸に励み、そのあいだ怠りな

く神仏にお詣りした。また、藩主幸弘も文武の二道を

専らにし、神仏への信仰に心の喜びを体得した。

これがいつしか藩の気風となり、誰が教えるという

こともなく、幼少の子供まで文武二道に励むように

なって、頽廃した人心が次第に改まった。
その頃になって、藩士の子弟のために学問と武芸

と娯楽の非常に均衡のとれた時間割ができあがって、

非行に走る青少年がいなくなったのである。為政者

が自己を抜きにしてどんなに熱心に教育施設や、

教育体系を整備しても、それは仏作って魂入れず

の徒労に終ることを恩田は知り抜いていたのである。

その頃ギャンブルといえば博打で、それにまつわる

斬った張ったや一家の離散が絶えないのであった。

恩田は時期を見てお触れを出し「藩の許しで慰み

のため博打をやり、敗けて難儀に及ぶ者は、お救

いくださるに付き遠慮なく申し出よ」と言った。その

申し出を吟味して、勝負の相手を確かめ、勝った

ものを呼び出して、博打で得た金子は全て敗けた

者に返せと命じた。それは平にご容赦をと歎願した

ら、恩田が言うには、さてはその方どもは博打を

商売にしておったか、そうではあるまい、慰みなら

許されると知ってやったことであろう、さすれば、

さんざん慰んだ筈だから、金子は返却するのが

当り前である。それを返却せぬとあらば、天下の

法度に基づき厳罰に処するほかないぞ、と。
これよりして、一般庶民は博打に興味がなくなった。

勝った金を使ってしまい、返済に困る者が多くいた

ので、それでは却って損だというのだった。こうして

松代藩には、紙一枚でも賭けて勝負する者はいな

くなったといわれる。敗けて損した者が進んで役所

に助けを求めるので、勝っても儲けることができず、

何々組などという暴力団を作る抜け穴がなくなった

のである。

『日暮硯』には詳説されていないが、恩田木工の

業績として特筆すべきは、山野荒蕪地の開拓や

養蚕の奨励を始め、多方面にわたる事業を興し、

五年を経ずして藩の財政を立て直し、進んで繁栄

の基礎をつくりあげたことである。


次のような逸話も『日暮硯』に記されている。――

あるとき公儀(幕府)の命令で公儀の御役を勤める

ことになった。江戸の藩邸から、この勤めを果たす

には二千両を持参されたいと言ってきた。
松代藩では、だれが二千両を持って行くかということ

で評定があった。このとき、恩田の「相役二人」という

から、多分さきの護符で槍玉にあがった不届き者だ

ったと思われるが、この二人が進み出て、われら両人

が江戸へ行って勤めを果たすと申し出た。
出発に際し、両人が言うには、よく勘定しまするに、

この勤めに二千両はかからぬ。恐らく千三百両でこと

足りる筈でござる、と。恩田のいわく、公儀の役目に、

出費を吝(おし)んでけちけちしてはならぬ。金は存分

に使うがよい。但し、公儀以外のことには節約して、

江戸詰めの役人と心をあわせて万事首尾よくお勤め

するがよい、と。このとき恩田は腹の中で、にっこり

したことであろう。なにしろ藩の金をうまくかすめ取っ

た経験のある二人だ。いわば銭勘定の名人(エキス

パート)に相違ない。だから二千両はかからぬと見込

んだのである。両人は江戸へ行って幕府の役目を

立派にやりとげ、見込んだ通り千三百両使って残り

の七百両を持って信州松代藩に帰任した。恩田は

藩主幸弘に進言して、二人を大いに称美し、おの

おの百両を褒美として与え、江戸藩邸の協力者たち

にも褒美として総額三百両を送った。それでも、

なお二百両が残ったわけである。こうして役人たち

も昼夜、かげひなたなく精を出して一段と忠勤を励

むようになったという。うまくごまかして得をしても、

内心びくびくして暮らさねばならない。それよりも

正直に努力して大いに面目をほどこす方がどんな

に嬉しいことか。

『日暮硯』の末尾の近くに次のような一部があり、

神仏への信仰が彼の教養の一つだったことをうか

がうことが出来る。「木工殿は政道に心を用ふる

のみならず、信心を第一にして、公(真田幸弘)

にも勧め、自身にもなほもって神仏を信仰して、

平日帰依僧を招き供養して、先祖の追福厚く祈り、

自身にも日課念仏を勤め、後生菩提のみを願ふ

こと、目前希代の賢仁なり」
ここに「後生菩提」とあることに注意しよう。文字

の意味は死後の悟りということで、一般には死ん

で極楽浄土へ往生するというほどの意味である。

この教養は広く一般庶民に浸透していたもので、

それが人に見られずとも悪を造らず、人に知られ

ずとも善を作すという日常の道徳とも深く結びつ

いていた。しかし、権力の座にある者は当面する

問題の処理に追われる内に、いつしかこの教養

を見失うことが多い。『日暮硯』が恩田を讚歎し

て「目前希代の賢仁なり」と言ったのは、そのため

であったろう。」

 

最後に、恩田が政務を執るにあたり、千石の地行は

「飯と汁以外は食べず、木綿以外は着ない」ことで、

ほとんどを藩主に返上しています。自らの身を切る

覚悟が驚異的なものです。現代の政治家も見習っ

て欲しいものです。また、絶対嘘をつかないという

覚悟も驚きですね。信用が無いと改革は出来ない

と考えたからでしょう。民主党政権の頃、野田氏が

消費税を上げないと言って当選したのに、上げて

しまったので、民主党の信用が無くなり政権を失い

ました。金融緩和でよかったのに、嘘をついてまで

上げる必要は無かったと思います。

また、労働者が支持していたので、非正規労働の

廃止やブラック企業の取り締まりに力を入れるべき

でした。今は金融緩和でしか財政再建の手は無い

と考えられていますが、無駄を無くしたら再建でき

るかのような錯覚があり、結局は労働者へ厳しい

労働条件を提示しただけで終わりました。

企業から献金をもらい、労働者を叩いていたにす

ぎません。期待していたのに本当に情けないです。

 

今日はここまでです。

明日は重要文化財の旧横田家武家屋敷の紹介です。

 

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