適塾を開いた緒方洪庵です
彼は文化7年(1810年)7月14日、備中国足守藩士
・佐伯惟因(瀬左衛門)の三男として生まれます。
母は石原光詮の娘です。8歳のとき天然痘にかかります。
文政9年(1826年)7月、に中天游の私塾「思々斎塾」に
入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、
以後は緒方を名字とします。4年間、蘭学、特に医学を
学びます。天保7年(1836年)、長崎へ遊学しオランダ人
医師ニーマンのもとで医学を学びます。この頃から洪庵
と号します。
1838年(天保9年) 洪庵が瓦町(現在の大阪市中央区
瓦町)に蘭学塾を開く。名医と言うことで高収入があった
そうです。1845年(弘化2年) 過書町(現在の大阪市
中央区北浜三丁目)の商家を購入し移転します。
ここが現在の適塾です。
1862年(文久2年) 洪庵が江戸幕府奥医師および
西洋学問所頭取となり、江戸に移住します。塾生の
教育には緒方拙斎(養子)が担当しました。しかし、
その1年後、突然喀血し窒息により死去。享年54歳
しかし、適塾からは福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、
大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などが
幕末から明治維新にかけて活躍します。
1868年(明治元年) 適塾が閉鎖され、緒方家は
病院経営に移ります。
(ウィキペディアより引用)
適塾の入口にある掲示板は
昭和39年に重要文化財になります。
適塾の間取りは
もらったパンフレットから引用しました。
①から番号順に写真を貼ります
①の土間と玄関部屋です。
②から土間と入り口を見たところです。
次に③から中庭をみたところは
受付で見学料金260円を支払い、ここには荷物置き場もあります。
教室1・2は普通の部屋です。
次は廊下で④で撮影しました
応接間が見えます。その向こうが客座敷です。
右の部屋は書斎⑥です
書斎です
次は⑤の応接間から中庭を見たところです
この家は大阪の町屋としても貴重な遺構です。
次は客座敷⑦です
床の間があり一番広い部屋です。
次は前栽(せんざい)⑧です
前栽です
次は⑨の家族部屋です
洪庵は6男7女の子供がいるので、応接間なども
居間として使われたようです。洪庵は人柄が温厚
でおよそ人を怒ったことがなかったといいます。
福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接する
にも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠
に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。
学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を
叱責しました。ただし、決して声を荒げるのでなく
笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を
緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生
に言わしめるほど効き目があったそうです。
塾生は多くが医者の子弟ですが、洪庵が有名に
なるほど医術ではなく、蘭学・兵学の習得を目的
とする塾生が増えます。
次は⑩の納戸です

納戸から内庭を見たところです。
次は⑪の台所と2Fへの階段です
この続きは明日UPします。
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