少し詳しく紹介します。下の地図に位置が書いて
あります。右端が切れてますので、拡大して見て
ください。戦乱の時代なので、東高野街道はお
そらく使われていないと思います。
私の作製した1480年当時の想像図です。
応仁の乱が終結した直後、畠山義就が改修
して補強したので、この時から文献に高屋
城の名前が出ます。おそらく、東高野街道
も迂回させたと思います。
グーグルの2013年の地図からです。
2013年7月4日に再度調査に行き
ました。現地で見た南大手門の跡から紹介
します。
墓地の北側は2mくらい高くなっています。
当時はさらに土塁と城門があり、前面は水堀なので
立派な構えであったと思います。なので、ここが
高屋城の南大手門だと思います。
前面に高見山墓とありますが、よく分りません。
外人の高見山大五郎は生きてますし。
近づいて見たところです。
城跡と墓地の間にある溝です。
外堀の跡と思われます。当時は幅がもっと広かったと思
います。前々回の航空写真と同じ位置ですので、前々回
も見てください。
続いて搦め手門(不動坂門)の北口です。
前方に大乗川があります。
1480年当時もこのあたりに堀がありました。
櫓台の跡です。礎石らしき物が見えます。
入れないようになっていました。
天正元年に(1573年)最後の将軍足利義昭は織田信長に
よって京都を追放されます。
1575年に三好氏(すでに三好三人衆もこの世には無く、
三好本家も滅亡していました。)の立てこもるこの城が、
織田信長に攻められた当時は、鉄砲や大筒もあるので、
この搦め手(不動坂)門が最初に破られたと伝えられてます。
この不動坂門(搦め手門)が破られて、三好康長は降伏しま
す。所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上しています。
信長は康長が三好の本拠四国攻略に利用できると考えて、
降伏を許して殺しませんでした。しかし、信長は今後を考えて
この城が再利用されることを嫌います。
河内守護の象徴だったこの城は信長により1575年廃城に
されます。
石川の東側から見たところです。
最後のおまけとして、下の写真は東高野街道が
城から南に出た所にある石の道標です。
右側の道は東高野街道です。江戸時代のもので
、平和なので堀や土塁は壊され、巡礼道として
整備されたのでしょう。しかし、この時代では
応仁の乱とか高屋城の争奪戦があり、平和では
ないので街道も寂れていたと思います。防備優
先なので使用が出来ないようにしていたと思い
ます。
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