応仁の乱が終結(1477年)すると、畠山義就
は家臣を連れて、河内と大和を実効支配します。
本拠地を高屋城にして、高屋城の補強を行います。
この頃から文献に高屋城の名前が出ています。そ
れまでは古市城などと呼ばれてます。資料を基に
その頃の高屋城の復元図を描きました。
下図ですが私の描いたものなので、畠山義就なら
このようにするのではという思いで想像しました。
右端は拡大して見てください。
1480年頃の高屋城の想像図
これ以降、織田信長により1575年に廃城になる
まで約100年間この城の争奪戦が繰り返されます。
三の丸の櫓台は畠山義就が造ったとされます。
この時畠山義就側の家臣は遊佐氏・平(ひら)氏・
越智氏・誉田氏・古市氏などです。家臣団側も
畠山義就派と政長派に分かれました。
遊佐氏・平(ひら)氏は古くからの重臣なので、
その家自体も2派に分裂してます。
高屋城の案内掲示板
高屋城の案内掲示板
次に①と②の場所の写真を下に貼ります。
②の本丸西の河岸段丘でこの下に堀があった
と考えます。線路は近鉄南大阪線です。この線のターミナルは
阿倍野ハルカスのある阿倍野です。
ここは②の本丸御殿のあった場所ではないか
と思われます。向こうに安閑天皇陵がみえます。
本丸に取り込んだ御陵は日常使われず。戦争時
のみ使われたと思われます。
③の付近で右側に不動坂があり、左は本丸で
柵の中は安閑天皇陵です。
6月30日安閑天皇陵前で撮影しました。
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