【正義を主張した瞬間から】6220
無能唱元師の心に響く言葉より…
私は常々、人間たちの生態を観察する時に、特に感じ入ることですが、「人間の不幸とは、彼が自分の正義を主張した瞬間から始まる」のだなあと思うことがしばしばあります。
こんなことをいう私を、多くの人々は怪訝に思うかも知れません。
人間が自分の正しいと信ずることを主張することは当然のことだし、むしろ、それは堂々となされるべきではないか?という疑問を持たれる方も多いと思います。
また、正しさが立てられない社会は、混乱と無秩序の内に崩壊してしまうであろうとの反論を頂戴したこともあります。
一々もっともであり、私も、人間文明は常に正しさの上に築かれねばならない、という点については同意するのです。
しかし、そのような考え方は、いわば常識的な判断であり、仏教的にいえば分別の知恵をもって考えられたものなのです。
そして、私がこの書の中において説こうと試みているのは、常に、この分別の知恵を超えた、いわば超常識的な見解なのであります。
このような物の見方をするには、「出世間(しゅっせけん)」的な意識を必要とします。
「出世」という言葉は現代では、成功や名声などを意味するようになってしまいましたが、本来はその逆で、 世から出て、山野に隠棲すること、あるいは坊さんになることをいったのです。
これはつまり、人間社会からの解脱であり、この解脱をなし得た者が初めて、人間社会を第三者の目をもって冷静に観察できるのであります。
いうなれば、このような見方、考え方というものは「大客観(だいきゃっかん)」とでもいうべき態度ではないかと私は思います。
さて、この大客観をもって、この大自然界を観察した時に、釈尊は、 「諸行無常である」(万象は常に変化しつつある)の発見をしました。そして、すべてが一刻の休みもなく変化しつつある故に、「諸法は無我である」(万物に固有の性格はない)ことを悟ったのであります。
これは実に重大なことを意味しています。
なぜなら、これは「何ものにも絶対的な正しさというものが備わっていない」ということをも含んでいるからです。
すなわち、正しさの基準は、時代と共に変化するし、地域の異なった処では、相反する正義さえ存在するからです。
たとえば江戸時代、仇討ちは善行でしたが現代では殺人罪でしかありません。
また、アラブの正義は、他の人種にとっては単なる野蛮な風習でしかないかも知れません。
そして、ここが大切なところですが、そのどちらかが、一定不変の正義であるという訳には行かないのです。
『君の霊格を高めよ』竹井出版
ひろさちや氏は「世間の物差し」を捨てる方法についてこう語っている。
それが、「出世間」。
そのためには3つのパターンがあるという。
それは「愚」と「狂」と「遊」。
「愚」になるとは、バカになって、ボーっとして、鈍(どん)で生きること。
世間的な駆け引きや、効率、損得、計算に「愚」になること。
「狂」とは、今まで通用していた常識や、思い込み、慣習などを一気に飛び越え、そこを突破するための一種の狂気だ。
吉田松陰は、「狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし」と言った。
頭でっかちで少しばかり知識があったり才能のある連中はダメだ。
世間の評判などまったく気にせず、狂ったように新しいことに挑戦し、愚直にやりとげる者こそ、誠に愛すべき人間である、と。
「遊」とは、「遊戯三昧(ゆげざんまい)」のこと。
仕事も、趣味も、ボランティアも、もっというなら病気も、アクシデントも、すべて遊び心で生きること。
遊びは「何かのため」とか「成果をあげよう」という目的がない。
ただただ、面白いから、楽しいからやるのだ。
つまり、人生のゲームを楽しむような気持でやる、ということ。
真面目な人ほど、正義感の罠(わな)に陥りやすい。
自分の正義感を主張すればするほど、まわりと衝突する。
そして、まわりから人は離れていく。
「愚」と「狂」と「遊」のある人は、正義感の罠にはまらない。
「正義を主張した瞬間から」という言葉を胸に刻みたい。
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