「する」の世界メインで生きているときに「在る」がどーたらいわれてもよくわからないかも知れないけど、「在る」の世界をメインに生きてると「在る」からズレて「する」の罠にハマってしまっているときにわかるようになる。
わかったからと言って即「在る」に戻れるときばかりではないけどw「わかっているけど、でも(まだなんかごちゃごちゃ言ってたい)」ということは多々。
これは前も書いたけど、「在る」と「認識する」どちらもあって目覚めだなと思う。「在る」でいてもアクセス先は様々。アクセス先が集合意識だと「文句を言わずに淡々と社畜をやっている」みたいな感じになったりもするのではないかと。
認識するのは観念や感情など、自分の中にやってきたもの。認識するというのは「これはよくないからやめよう」とジャッジするのとは違う。ただ「こう思ってるんだなあ」と認識するだけ。「こう思っている自分が嫌だなあ」と思ったらそれもただ認識する。
全部自分の中で処理すればいいかというとそうではなく。モヤモヤを自分の中で解消しようとするもなかなか消えなかったり、同じようなことが何度も起こるのであれば、それは「相手に伝えることをしてみて」という自分からのメッセージかも知れない。
相手に変わってもらうためではなく、自分自身の意思表示のために。
というわけで、「目覚めながら生きる」ことに大事なもの
1.在る
2.認識する
3.表現・行動する
ですね。シンプル。
「在る」ことで「表現・行動する」ということが起こったり、「在る」からズレて「する」の罠にハマったときに「認識する」や「表現・行動する」ことで「在る」に戻れたりするわけですね。
「認識する」の中に「エネルギーを感じる」というのも含まれるかな。人は怒りや恐怖など不快な感情を感じたときに思考を働かせるなどして気をそらしがち。それはある種の処世術なのかも知れないけど、根本的解決にはならない。同じようなことを繰り返す。
それらの感情は感じて欲しくて(自分自身が感じたくて)生じているからね。
その都度完了させてあげましょう、ということです。だんだん同じようなパターンが起こらなくなってくる。
「コップに水が半分入ってるとき、『半分もある』『半分しかない』どちらを思うか」というのは色んなところで聞く話だが、「半分しかない」と思う人が「いや、半分もあるじゃないか(だから感謝するのがいいんだよね?)」と、「半分しかない」を否認するのはあまりよろしくないのではないかと思う。
ここでもやはり大事なのは「半分しかない、と思ってるんだなあ」と認識することだし、感謝をするなら「『半分しかない』と思うことに気付かせてくれてありがとう」なんだと思う。また違うときには「半分もある」と思っているかも知れない。
こういうことを繰り返していると、「色んな視点・側面が自分の中にあって、それはやって来てはなくなり、どれも自分のものではない」ということが腑に落ちてくる。
「認識する」をし続けることで、「在る」がいまいちわからなかった人もわかるようになってくるのかもね。
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