<サンタ・マリア広場 1929年 プッチ・イ・カダファルク作>
カサ・アマトリェールを設計した、モデルニスモの三代巨匠(ガウディ、モンタネール、プッチ)
の一人、プッチ・イ・カダファルク設計による広場です。
左側は巡礼者用の宿泊施設アルベルゲとなっています。
正面ファサードは内戦後の1942~1968年にかけて建設されました。
この地が聖地として重要な地位を占める理由の1つに、歴史的背景があります。
まず第1に、19世紀初頭に起こったスペイン独立戦中。
当時フランス皇帝であったナポレオンがスペインに侵攻した際、カタルーニャの地元民兵が
モンセラット修道院に立てこもり、最後まで抵抗を続けた場所だったためだそうです。
第2に、20世紀のフランコ独裁政権時代に、家以外の公の場所で話すことが禁じられていた
カタラン語を断固としてミサの際に使い続けていた唯一の協会だったそうです。
そういった背景があり、今でもカタラン人たちの心の拠り所となっているようです。
ガウディにはカタラン語にちなんだ、こんな逸話が残っています。
ある時ガウディが警察に尋問された際、禁止されているカタラン語を使い続け、
ついには一晩を拘置所で過ごすことになったそうです。
スペイン国王がサグラダ・ファミリアを訪問した際にも、カタルーニャ語で通したそうです。
このように、言葉とアイデンティティの問題は、この地域に住んでいる人にとって
もっとも身近なトピックスの1つなのです。
<中庭回廊>
話がずれてしまいましたが、広場の奥に、とっても素敵な中庭回廊がありますので、
是非足を運んでみて下さい。
これは1460~1476年に建てられました。
壁面はモンセラットの紋章で飾られています。
二人の天使がノコギリで山を削っている図柄ですので、探してみて下さい。
この回廊は、のちにローマ教皇ユリウス2世になったジュリアーノ・デッラ・ロヴェーロ
大修道院長(ジェノヴァ共和国出身)が資金を提供し、地元建築家アルフォンソ・イ・ぺラス・バセット
によって設計されました。
ジュリアーノ家の家紋が装飾に使われているのは、出資者に敬意を示したためだそうです。
回廊の丸いアーチの上部はロマネスク様式で、下部はゴシック様式。
この中庭にある糸杉は、聖マリアを象徴しているそうです。
<聖母マリアの坂にある、スビラックの「セント・ジョルディ」像、1986年作>
サグラダ・ファミリアの受難の門を担当した、地元カタルーニャの巨匠による、「サン・ジョルディ像」です。
どこを歩いていても、目が合い続けるという不思議な彫像です。
受難のファサードでも同じ手法が使われています。
ところでサン・ジョルディとは、カタルーニャの守護聖人で、カタルーニャでは4月23日に
男性が女性に薔薇を贈り、女性は男性に本を送るという風習があります。
これはサン・ジョルディの竜退治の話を元にできあがった風習です。
昔この国には獰猛な悪い竜が住んでいて、近隣に住む村人達を脅かしていました。
村人たちはくじ引きを引いて、生贄を決め、竜に捧げていました。
しかしある時、王様の娘がこのくじを引いてしまいました。
王女様はドラゴンの住む湖のほとりに連れて行かれ、啜り泣いていたところ、
サン・ジョルディが通りかかり、竜を剣で一突きにして退治し、王女様を救ってくれたと言います。
大地は竜の血で真っ赤に染まり、そこから一輪の薔薇の花が咲いたそうです。
それをサン・ジョルディは永遠の愛のシンボルとして王女様に贈り、愛が芽生えた、というお話です。
このサン・ジョルディの伝説は、ガウディ、モンタネール、プッチといった
モデルニスモ建築の3大巨匠だけでなく、カタルーニャ地方の芸術、建築、彫刻などに、
繰り返し使われているモチーフです。
我が家の子どもたちの学校には、各クラスに一人はジョルディ君がいます。
ジョルディはカタルーニャ地方に最も多い男性の名前だそうです。
そしてモンセラットはかつてはカタルーニャで最も人気のある女の子の名前だったそうです。
最近では古臭い名前のようで、子どもたちの学校でモンセラットちゃんはまったく見かけませんが、
ママ世代の方に多く見かけます。





