先日、↓の記事で「親に愛されなかったけれども、神様から愛されていればそれで良い」と思っている、と書きましたが。
以前にも、同じようなことを書いた記事があったな〜とは思ったけれども、過去記事を探してもどの記事なのかわからなかったので、リンクを貼れませんでした。

けれども、前回の記事で、つるし雛についての過去記事を探していたら、たまたま見つかりました(^_^;)


思っていたほど昔の記事ではなかったんだな、と思っただけで、そこから更に深く追求する気はありませんでした。

その後、ふとした瞬間に、私が両親、特に母親に対してここまで強硬に、そして残酷というか冷徹になるのは、今までの母親自身が私に不信感を持たせる言動しかしてこなかったことが原因じゃないか、ということを改めて思い出しました。

その一方で、信頼関係を築く努力をしてきたかというと、全くなくて。

むしろ、産んだというだけで、無条件に信用されるに値する、と勝手に思い込んでいた節があるように感じました。

まあ、それは本人の勝手な思い込みでしかなくて、私は息子が1歳の頃に自分のいうことを聞いてもらえないことについて「何故だろう?」と考えた時に、親子になってまだ1年ぐらいしか経ってなくて、まだ信用されていない、ということに気がつきまして、その後は自分が息子にとって絶対に裏切らない人間だと信頼される努力をする必要がある、と考えました。

それで、息子に対して嘘はつかない、約束は絶対に守る、ということを徹底してやってきました。

私がそういうことに気づいたのは、自分の母親が私に対して、信頼関係を築くという努力を一切してこなくて、自分の思い通りにコントロールするために嘘をついて騙したり、約束を守ったことが一度もなかったり、ということを平気でやってきたからだ、ということにも気がつきました。

親だからといって、何をしても許されるというわけではない、ということを私は自分の子としての立場から嫌というほど思い知らされてきましたが、息子との関係は、かつて私が子という立場で感じ、考えてきたことの裏づけになるものでした。

だからこそ、自信を持って「両親は自分さえ良ければ私を地獄に落とすことも、残酷な方法で殺すことも平気でできる人間だ」と言うことができる、ということに改めて気がつきました。

昨年、NHKの土曜ドラマで「エンジェルフライト」というドラマをやっていまして、その中で、米倉涼子さんの主人公が経営する海外で亡くなった日本人の亡骸を運ぶ会社の若手社員(松本穂香さん)の母親(草刈民代さん)が、娘を愛することができない母親ということで、幼い頃に踏切で転んで、遮断器が下りて電車が近づいて来るところに取り残されたのを、遮断器の外から母親が冷たい目で見ている、という場面を見ていて、自分の母親のことを思い出したことがありました。

そのドラマの母親は、娘への愛情を上手く伝えることができない不器用な母親だったことが亡くなった後に分かりまして、その踏切でのことも、娘が「助けて」というのを待っていて、助けを求めた時に、緊急ボタンを押したのですが。

私の母親だったら、立ち止まりも振り向きもせずにそのまま行ってしまって、私が電車に轢かれて死んだ後になってから、「踏切に取り残されたことに気づかなかった」と、大げさに泣きわめいて、かわいそうな母親を演じて周囲からの同情を集めようと必死になるんだろうな、と思いました。

というのは、私が小学校でいじめに遭った時の両親の言動がまさにこれだったからでした。

父親は当時「いじめられるのはお前が悪い」と取り合わなかったんですが、私が成人してからは、そう言ったのをなかったことにして「知らなかったんだから、何もできなくて仕方がない」と言い張り、私が訴えても↑の発言で一蹴して取り合わなかったことを言うと、暴力で黙らせました。

母親の方は、いじめの加害者の言いがかりを真に受けて、私を殺そうとしたのですが、そのことを指摘すると、泣いてごまかすだけで、謝罪すらありませんでした。

そのことから、この二人は、例えば両親と私と弟の4人家族が乗ったボートが事故で沈むことになった時だとか、地震で津波が襲って来ることになった時、私だけ置き去りにして、自分達だけとっとと逃げてしまって、私が死んだ後になってから被害者辛して、置き去りにして殺したことを誤魔化そうとする人間だ、と判断しました。

私がそう思うのは、いじめに遭った時の両親の言動だけでなく、もしかすると、過去生でそういう経験をしたせいもあるんじゃないか?と思いまして、それが先祖のカルマの根源となっている出来事なんだろうな、と思いました。

いずれにせよ、両親は、世間体を取り繕うというか、第三者にバレさえしなければ、悪事を犯しても良心の呵責というか痛みを感じない人種だな、と改めて確信しました。

そういう親であっても、愛情がある、と言い張って、私が両親を切り捨てる決断を下しても思い止まらせようとしたり、妨害してくる人達がいましたが。

よく考えてみると、その人達には共通点がありまして。

独身の人もいれば、既婚者もいましたが、全員、子どもがいない人でした。

私が両親に対して見切りをつけたのは、自分自身が息子に対して、普通に常識的というか健全に愛情を持って育てている母親になれているし、自分自身が親になったことで、親の欺瞞や卑劣さに気づくことができたという事実を、自身の子どもがいなくて親という立場を経験できていない人間には理解できなくてスルーしてしまっていた、ということですね。

その経験から、魂の問題は、霊能者であっても多少参考になる程度の助言しかできない、ということに気がつきました。

また、麒麟も老いれば駄馬にも劣る、という格言がありまして、若い頃は有能だったと思われるけれども、年老いても地位にしがみついて、後進に譲ろうとしない経営者や政治家のことを老害、と呼ぶようになったのは、この言葉が基になっているのですが。

元々毒親の私の両親は、年老いたから、放射性廃棄物レベルの危険物だと思っても良い、と今は自信を持って公言することができますグラサン

見えない世界に限らず、実生活においても、全ての物事は人間の目に見える部分は全体のせいぜい3分の1程度でしかない、と思って間違いないのですが、これを世間一般では氷山の一角、と呼んでいます。

魂の問題については、霊能者だとか占い師だとか、いわゆる視える人であっても、表層部分の10%視えれば上出来、なんだと思います。

残りの部分は、本人が自問自答しなければわからない、ということが10年間スピリチュアルについて学んで、やっと理解できるようになりました。

私がスピリチュアルジプシーを卒業してから、そのことがようやくわかって、自信を持つことができるようになったのですが。

まあ、表層部分の1%程度しか見れていない人ほど、クライエントに干渉したがるというか、マウント取りたがる傾向があるように感じました。

Thambaさんは、スピリチュアルリーダーというかセラピストの人がクライエントに干渉したり、マウントを取ろうとすることを無料講座で「スピハラ」とおっしゃっていまして、上手いこと言うな〜爆笑と、思いました。