今、NHK総合テレビで毎週日曜日の夜に昭和元禄落語心中のテレビドラマ版を放送していますが。
原作
を読んで、とても面白かったので過去にNHKのBSで放送されていたドラマ版を地上波でも放送すると聞いて、キャストを調べましたら、原作のイメージに合っていると感じたので、毎週、録画して見ています。
ドラマの出来は、期待通りで非の打ち所が全くないのですが。
原作を読んでいた時には気づかなかったけれども、ドラマを見て、この作品は「落語版の『国宝』だな」と感じました。
夫やママ友は、原作の小説を読んでいて、原作と映画の違うところがわかっているのですが、私は、原作(夫が買った本がある)をまだ読んでいないので、映画の国宝しか知らない状態で感じたのは、「昭和元禄落語心中って、落語家版の国宝だよね」ということでした。
歌舞伎の世界=梨園と違って、落語家の世界は、決して世襲ではないので、梨園のように「血統がものを言う」という世界ではないです。
現在でこそは、林家正蔵さんや柳家小さんさんのように、親も落語家だったという方が落語家をされて、親の名跡を継いでおられることもあるのですが、落語家の世界は、実力の世界だと思います。
まあ、落語心中の作中でも出てきますが、落語協会等の団体の事情等で、大名跡を継ぐ人が実力がある落語家を差し置いて軽背が継ぐ、ということもあるとは思いますが、人気=実力、という世界でもあるので、そこは梨園どころか相撲界以上にシビアな世界だと思いました。
でも、相撲のように実力というものがはっきり素人目にも理解できるという世界でもなくて。
面白い=実力がある、ということは間違いがないけれども、面白いことが全てという別けでもない、という部分もあるので、非常に難しい世界だな、と改めて感じました。
私は、小学生の頃は、桂三枝(現在の桂文枝)が一番面白い落語家だと思っていましたが、上方落語の天才・桂枝雀の落語と出会ってから、三枝は所詮、創作落語しかできない咄家だということがわかりまして、枝雀師匠の贔屓になり、それから私は落語好きになりました。
枝雀師匠を通して、古典落語というものを知ってから、笑点の見方も変わりまして、当時笑点の司会だった五代目圓楽や桂歌丸、といった東京の落語家の落語にも親しむようになり、人間国宝・五代目柳家小さん師匠の偉大さを理解できるようになりました。
そんな風に、小学生の頃は、落語も漫才と同列の面白いことを言って笑わせるだけの芸能、という感覚で捉えていたのが、中学生の頃から、古典落語というものがわかるようになり、落語の本当の面白さがだんだん理解できるようになったのですが。
昭和元禄落語心中だけでなく、クドカンのタイガーアンドドラゴンでもわかるように、暇さえあれば寄席に通っているような落語通の人は、枕が終わって、本題の噺の初めを聞いただけで、どういうネタかということがわかるのです。
私も、幾つか、定番のネタならわかるようになってきたのですが。
そういう人は、最初の語り出しを聞いただけで落ちまでわかっちゃう、という訳です。
そういう人でも笑わせるには、いかに面白く登場人物を演じ別けるか、とか、ストーリーを演出するか、というような工夫や技術が必要になる訳です。
枝雀師匠とその師匠の人間国宝・桂米朝師匠亡き今、私が上方落語で一番贔屓の桂文珍師匠は、枝雀師匠同様、英語落語というものを演じておられるのですが。
文珍師匠の英語落語と枝雀師匠の英語落語は、演目が同じであっても、決して同じ落語ではないのです。
同じ演目でも、語る咄家によって、全く違う作品になる、というのが落語の最大の魅力だと、私は感じるのですが。
国宝を見た後に、ドラマの昭和落語心中を見て、歌舞伎の世界と落語の世界は、全く違う世界のはずなのに、なぜか、根っこのところは同じだな、と感じました。
世襲の落語家が、落語の世界の外から落語の世界に入った人と違うところは、物心つく以前から、落語を見聞きして育ったということぐらいの違いしかないのですが。
門前の小僧習わぬ経を詠むというのは、血統が実力に影響することはないはずの落語の世界でも、ファンが思っている以上に影響が強いことなんだな、と感じました。
とはいえ、昭和元禄落語心中の原作やドラマの話はもちろん、大河ドラマのいだてんでも出てきましたが。
終戦後からテレビ放送が始まって、漫才ブームが始まった頃ぐらいに「落語が消滅してしまう」という危機にさらされたとのことですが。
昭和元禄落語心中のラストで九代目八雲(ドラマでは竜星涼さん演じる与太郎)が言う「こんな良いものがなくなるはずがないじゃないですか」というセリフに、非常に共感しました。

