ご訪問ありがとうございます
グリーンフォレストの森口です(^ー^)
先日お話の中ででていたこと、それを、
今日はちょっと取り上げシェアします。
もしかしたら、
必要とされる方も、
いらっしゃるかもしれませんから。
その出ていたお話とは何かというと、
「かわいそう」
「○○してあげたい」
そんなとっても優しいそのおもい について。
とっても美しく慈悲深いそのおもい。
あなたの身近にいる誰かが、
そんなおもいを行動動機として活動されていたら、
どんな印象をその人に抱くでしょうか。
この人きっといいひとなんだろうなぁ。
優しい人なんだろうなぁ と。
そう感じる方もきっと、
多いのではないかと思います。
たしかに、
雨の中子猫がずぶぬれになって、
みーみー鳴いているのをみかけたならば、
かわいそうに…。
なんとかしてあげたいと、
そう思うのが普通というか、
むしろ、
そう思わない人がいたとしたら。
そんなのほっときゃいいよと、
あっさり素通りする人が身近にいたとしたら。
あなたはきっとその人に対して、
…なんて冷たい人なんだろう…と、
軽蔑すらするかもしれません。
じゃあ、
こんな場合はどうでしょう。
どうやら家の周辺をうろついている野良猫が、
赤ちゃんを産んだようで、
このところみーみー鳴く赤ちゃん猫の声がする。
探したところまだ小さな猫が、
寒さでぶるぶる震えながら鳴いていた。
かわいそうに…。
なんとかしてあげたい。
そのおもいに忠実に、
その野良猫の赤ちゃんを連れ帰ることにした。
もう家にはこれ以上飼えないくらい、
拾ってきた猫がたくさんいるけど。
じつは行政から、
「飼育放棄」とも言われる環境だけど、
ここに置いておくよりいいだろう、そう思って。
いかがでしょう。
飼育放棄とも言われる劣悪な環境でも、
かわいそうに…と、
私がどうにかしてあげたいと、
そう思って、
子猫の「この先」も考えずに、
自分のおもいを満たすためだけに子猫を持ちかえる。
「この人」は、
心の温かい慈悲深い人になるんでしょうか。
無力な小さな存在に対して、
「愛」を与える、「情け」をかける。
それは美しいことであり、
人として優れたことかもしれません。
ただ、
なんですよね。
愛を、情けをかけるその存在、
その存在の「この先」を考えて行動するのか、
己の満足のために、
こうしておいたらいい人だと思われるだろう、
そんな浅はかな計算の元で、
その存在の「この先」を考え行動するのと、
己の「この先」を考え行動するのとでは、
じつは全然違うものが未来に生じてくるんです。
たとえば、
かわいそうだなと思う人がいた。
だからできる限りのフォローをした。
時に自分を抑え、
余裕は全然ないけれど、
時に自分の私財(お金、時間など)をなげうって、
あなたは全力でその人をサポートした。
それは、
優しさもある、愛もある、
そうしたらこの人がきっと良くなると思ってのこと。
でも現実にはどうでしょう。
そのお相手はあろうことか、
そうしてサポートしてくれたあなたのことを、
裏でののしり 裏で蔑み、
あなたのことを感謝するどころか、
あなたのせいでと恨みつらみを募らせていた。
一方、
目の前にいるかわいそうだと感じる人、
その人に対して、
今自分ができるサポートをする。
必要以上の手助けではなく、
その人が自分のもつ力を発揮できるよう、
必要なところにつなげながら、
自己犠牲ではないサポートでもって、
その人をフォローする。
ならばどうでしょう。
この二つの違い、
理解できるでしょうか。
ひとつは自己犠牲で成り立つサポート、
かわいそうにという必要以上の感情移入が原動力。
もうひとつは、
自己犠牲ではなくチームで行うサポート、
この人ならきっとできるという信頼に基づいたサポート。
この二つの違い。
どちらがその支援を必要とする人にとって、
愛ある行動、サポートだと感じるでしょうか。
かわいそう、かわいそうという過剰な感情移入は、
じつは相手にとって不快なもの。
想像してみてください。
もしあなたがかわいそうにと、
過剰に手助けされることになったら。
きっと最初はありがたいと思うでしょう。
でも人ってね、
「みじめ」だと蔑まれることで、
「気の毒に」と憐れまれることで、
どんどん歯車が狂ってくるんです。
表面上は「感謝」を表すかもしれませんが、
その裏では、
自分を蔑む、憐れむ、上から目線の人が、
自分の世話をしている、
そこになにか自分に対する「愛」ではなく、
その人の「自己満足」があることを感じ取ると、
不思議なんですけどね。
無意識の怒りが芽生え、
相手に対して感謝するどころか、
やってもらってあたりまえ。
なんだったらもう、
やらせてやれ、それがこいつの望みだろうと、
そういうおかしな感情だって芽生えてしまって、
サポートする人はいつの間にか、
振り回されてしまうんです。
でも困ったことに、
かわいそうにと、
なにかやってあげたいと、
そう思って行動するその人は、
そんなこと夢にも思いませんからね。
最終的には、
こんなに
やってあげてるのに、
この人なんなの!!?
と怒り狂う。
もはやあるあるですよね。
かわいそうに…が悪いわけでも、
なんとかしてあげたい が悪いわけでもない。
大事なのは、
最初はちょっとした親切心が、
いつしか過剰になる過ぎることで、
結果として、
境界線を踏み越えて、
相手を憐れみ蔑み共依存関係になってしまう、
そこが危険だよと、
そういうことでしょうか。
いきすぎた者には、
いきすぎた者がやってくる。
これもまた需要と供給であり、
引き寄せ現象。
もうひとつ付け加えると、
かわいそうに…と過剰に感情移入する人、
私がなんとかしてあげると、
境界線を簡単に侵入してくる人は、
相手が生きてるものであろうと、
死んでるものであろうと共鳴しやすいので、
ストレートに言えば、
生霊をもらいやすい。つきやすい。
カウンセリングをしていても、
あら~…と思う方けっこういらっしゃいます。
体調不良にまで発展し始めると危険です。
でもそういう方に限って、
自分は良いことをしていると、
そうとらえているんですからややこしい。
自己犠牲を伴う愛って、
自己満足と同じような波長なんでしょう。
共鳴具合がもう蜜過ぎて、
生霊からしても居心地がいいんでしょうね。
お気をつけください。
してほしかったのに…という、
そんなおもいが強い人ほど、
そういうおもいを強く抱いている人ほど、
過剰に相手にやってあげようとする傾向があります。
自己犠牲を伴うものは、
巡り巡り我が身に返るということを、
忘れない方が良いかなと、
個人的にはそう思っています。
あなたと私という線引き、
そして、
自分がいまできるサポート、支援。
溺れる者を助けようと思えば、
まず自分が泳げることが大前提ですが、
自分では無理だと感じたらばすぐ、
他の支援策を考えるなり支援者を募ること、
そうでないと共に沈みます。
見捨てるじゃない。
見放すじゃない。
他にできる策を懸命に探して、
自分で背負い込みすぎず、
自己陶酔しないということ。
かわいそうな猫をみつけた、
なんとかしてあげたい。
飼える状態であれば飼ってもいいでしょう。
でも現状、自分の状況を考えて、
無理であればSNSを通して、
飼い主をみつけるのもあり。
無理なのに、
世話もできないのにつれてかえる。
あとは知らない、ほったらかし。
それはむしろ、
その子猫にとってどうなのか
なんでしょうね。
私も幼い頃 勝手に捨て犬を連れ帰って、
親にさんざん怒られましたが、
今ならもう、
その怒られた意味も背景もわかります。
あなたはいかがでしょう。
どんな風に感じるでしょうか。
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