いつもお付き合いくださり
ありがとうございます
 
柿山チャペルの礼拝模様を
お取次ぎさせていただきます。
 
「信仰」がある、と言いながら
つい、自分の力で、何でも
やってしまおうとする、
愚かな私です。
そこに主の存在を無視して
自分だけで歩もうとする
不信仰な自分がいる事を
気付かされました。
感謝です。
 
是非本文からご覧下さり
神様からの祝福をお受けください
あなたのためにいつも祈っています🙏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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牧師室から

『自由に立って』

ガラテヤ人への手紙5章1〜4節

小泉智牧師

 キリストがどういう方か。自由を与える方だとパウロは証言します。キリストが臨んでくださらないなら、人は奴隷状態のままだということです。ところが、せっかく自由にされても奴隷状態に舞い戻ってしまうことはあり得ます。

 

 パウロが二度と奴隷にならないように立ち位置を確かめて欲しいと願うのもそのためです。道徳的に悪いことに限りません。しかも一見、よさそうに見える形で奴隷に取り込んでしまう働きもありますから厄介なのです。ガラテヤ教会にとってはそれが割礼という儀式でした。一見、宗教的で真面目で敬虔に見えるものが人を奴隷にしてしまうことも起こります。

 

 信仰を持ったら、何々しなければいけないという発想も一種の奴隷状態なのです。そういう考えを持ち続けるなら、何のためにキリストが十字架にかかり復活されたか分からなくなります。人にはできない限界があるから、キリストがおいでくださったのです。自力でできるならキリストは不必要になってしまうではありませんか。

 

 自分の力で生きるなら何もかもひとりで背負い込まないといけなくなります。キリストが助けてあげると言っておられるのに、結構ですと拒むようなものです。

 

 律法によって義とされるとはそういうことです。人は誰でも自分のやっていることが評価されると信じたいのです。社会が評価主義や実力主義で動くからです。しかし信仰の世界は成果ではない。一方的な神の恵みによって人は救われるのです。何もするなということではありません。救われた者を動かしていくのも神の恵みなのです。私たちはキリストの恵みに留まり、その影響の下にいるキリストの関係者であることを感謝して歩んでいくのです。

 

〜みことばの黙想と適用〜

 今日の礼拝メッセージを通して、キリストにある自由について考えさせられました。キリストは私たちに自由を得させてくださいました。いろいろなものにがんじがらめになってまるで奴隷状態だった私たちを解放してくださったのです。「真理はあなたがたを自由にします」イエス様ご自身が真理なのです。その当時のガラテヤ教会においては、キリストを信じるだけでなく割礼を受けなければいけないという教えが幅を利かせていました。しかし、割礼を受けるということは、律法全体を行う義務が発生するのです。これは、律法によって義と認められようとすることになります。もし律法によって義と認められようとするのなら、キリストは必要ないということになり、恵みから落ちてしまうことになります。そんなことになれば、キリストの十字架の贖いは無意味になってしまいます。私たちも気をつけなければいけません。せっかくキリストを信じる信仰によって救われたのに、知らず知らずのうちに奴隷状態に舞い戻ってしまうこともあり得るのです。信仰によって救いに入れられた私たちは、この地上における現実の生活においても信仰から信仰へと歩んでいかなければなりません。それがどのように可能になるでしょうか?それは、信じた時に受けた「聖霊」によってのみ可能になります。聖霊は神のいのちであり、人格もあります。親しく交わることもできます。決して概念ではありません!この地上における生活は、聖霊様とともに歩むのです!これは現実です!聖霊様は御心を教えてくださり、実際に導いてくださいます!必要な力も注いでくださいます!もし、まだ聖霊様との交わりがわからないならば、話しかけてみましょう!求めてみましょう!聖霊とともに歩む人生を実際に体験してみましょう!きっとエキサイティングな人生になります!ハレルヤ!聖霊様、導いてください🙏