1, 神の共同体は神の聖を持たなければならない
申命記の中には、いわゆる法律、特に、ここでは民法の細かい適用に関する規定が記されています。ところが、今日の箇所において、主が仰りたいことは何でしょうか?その結論部分が9節です。「このようにして、あなたは、【主】の目にかなうことを行うとき、咎のない者の血を流す罪をあなたがたの中から除き去ることができる。」。つまり、ここでの主題は、神の民の共同体の中から罪を除き去ること、であることが分かります!つまり、神は聖なる方であるということです。このことばはレビ記に出てきます。レビ記11:44~45「わたしはあなたがたの神、【主】であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」。「自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」。つまり、私たちが世と分離して、神のような罪のない、きよいものとならなければならないという命令です。ここには汚れているものに触れてはいけない、ということも言われています。これは自分自身を守るためです。
もう一か所。レビ記19:2~3「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。3 それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。4 あなたがたは偶像の神々に心を移してはならない。」。その後を見ると、父と母を恐れよ。安息日を守れ。偶像に心を動かされるな。と記されています。つまり、神の律法、十戒の教えをことごとく守ること、言い換えれば、みことばに聞き従う生活をし、罪の誘惑に打ち勝つこと。これが聖なる生き方であることが分かります。聖なる生き方が聖なる者として生きる共同体の大切な原則であることが分かります。
2,血の力と執り成しの力
1)血の力
では今日の箇所はどんなケースでしょうか?1節を見ると、だれが殺したのか、犯人が分からないケースです。この場合一番近い町が責任を負わなければならないと記されています。では、この罪をどう拭い去ったらいいのでしょうか?それを行うのは3節の長老たちとさばき人です。殺人事件があった場所に最も近い町の長老たちが備えなければならないものがありました。それがメスの子牛です。第二サムエル6章をみると、母牛は子牛と分かれて泣きながら、ほふり場に向かう姿が出てきます。それと同じように、ここでのメスの子牛は絶えず流れる川の岸辺で首を折られ、殺されるのです。それは「まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない」川の岸辺で行われました。神様へのいけにえに欠けがあってもいけません。またしみがあってもいけません。シミやしわの何一つない完全なものでしか、主はいけにえを受け取ってくださらないからです。このメスの子牛とは何一つ欠けのない、完全ないけにえである神の子羊、イエス様を表しています。
クリスチャンになってちょうど3年が経とうとしていました。しかし、ある兄弟がふさぎこんでしまったことがありました。それは信頼していたクリスチャンに裏切られたと思えたときでした。そのとき彼は一つのことを決めました。「絶対に、あの人を赦さない!」と。そのような憤った心で、一日経ち、二日経ち、1週間が経ちました。そして1ヶ月になろうとしていました。1週間くらいのときはまだ少し笑顔も残っていたのですが、1ヶ月近くになると、もう笑顔どころか顔の表情がなくなり、息をするのも苦しくなってきました。
こんな思いはだれも理解してはくれないだろう。けれども、イエス様だったら理解してくださると思って、彼はイースターの朝、その不平不満、怒りをイエス様に全部ぶつけました。「イエス様!あの人はこんなにひどいです。ああ、本当に裏切られました!私はあの人をクリスチャンとは認めません!もう私は疲れました。限界です。あんな人がいていいんでしょうか!」
こうして徹底的に心の中にある不平不満をイエス様にぶつけました。30分くらいイエス様に心の中の不満をぶっつけたでしょうか!その時、目の前に、十字架にかけられたイエス様の姿がまざまざと見えました。そしてイエス様は彼の憤った祈りを聞いてくださいました。すると、彼の心がすっきりしたのです。しかし、そのときイエス様がこう言われたのです。「わたしはお前の罪を残らず身代わりに引き受け、裁かれるべきお前のために、こうして十字架にかかった。そんなに辛いのか?」イエス様は彼を叱るのではなく、諭すように優しく仰いました。イエス様に、そのように言われたら、一体何を言えるでしょうか(笑)!彼がイエス様にぶつけていた不満や憤りはほんのささいなチリのようなものに思えました!その時、彼は子供のようになって、「主よ、わかりました。私を赦してください。私も彼を赦します」と十字架を仰いで告白したのです。すると、今まで息も詰まるほど精神的にも肉体的にも疲れ果てていたのに、その時からうそのように解放され、再び喜びが溢れるようになったのです。
2)きよい者の執り成しの力
6節以降を見ると、町の長老たちに対して、こう命じられています。「谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、=尊い十字架の血潮によるきよめ、7 証言して言いなさい。『私たちの手はこの血を流しておらず、私たちの目はそれを見ていない。8 【主】よ、あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。咎のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。』こうして彼らは流血の咎を赦される。」。イエス様の血によってきよめられ、罪赦され、自分たちの罪が清められていること、つまり罪が清められ、義とされていること、これが祈りが答えられる前提なのです。ヤコブ5:16~17「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人=義人」の祈りは、働くと大きな力があります。17~18節には、 エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。18 それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」と記されています。
罪をきよめられた者の祈りは力があるのです。サムエルはどうであったでしょうか?彼が祈ると雷がとどろきました(第一サムエル7:10、12:18)。また彼が祈ると、敵ペリシテはイスラエルの領土に侵入することが出来ませんでした。ヨシュアが「太陽よ、留まれ、月夜、動くな」と祈ると、イスラエルが敵のアモリ人を打ち倒すまでは太陽は動かず、月はとどまったと記されています(ヨシュア10:12~13)。
このように聖別された者の祈りには力があります。しかし、ここでの祈りはただそれだけではありませんでした。誰かの犯した罪の執り成しです。きよい者が祈ると力があるのです。預言者ダニエルはイスラエルの民の犯してしまった罪を自分の罪として告白しました。そのとき、御使いガブリエルが来て、将来起こるイエス様の十字架による贖い、罪のきよめを悟ることが出来たのでした(ダニエル9:1~27)。私たちも個人で生きているのではありません。共同体の一員なのです。この事を意識し、人を責めるのではなく、足りないところを自分が背負う時、神の御心が前進するのです。今日のメッセージの内容は「血の力と執り成しの力」でした。お祈りしましょう!




