最後には希望が残る~八日目の蟬(4) | ricky321のブログ

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田辺聖子曰く「清少納言は子どもを描写はしているのですが、あまり子どもに関わりのない人が書いた印象を受けるのです。外見的なかわいさばかりが書かれていて、これは子どもを産んだことのない女の感覚ではないでしょうか。」

確かに、『枕草子』で「うつくしきもの」の一節。

二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを
目ざとに見つけて、いとをかしげなるおゆびにとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。(二つか三つの幼児が、急いで這ってくる途中に、ほんの小さなごみがあったのをめざとく見つけて、ふっくらと小さな指でつまんで、大人などに見せているしぐさ。)

……のように、清少納言はあくまでも子どもの傍観者である。

歴史的な資料では、清少納言には子どもがいることになっている。田辺氏は『むかし・あけぼの~小説枕草子』では、子どもたちは亭主である橘則光の連れ子で、他の女との間に生まれたのを、女の死でやむなく少納言が世話を焼くことになるという設定にしている。

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『枕草子』と『八日目の蟬』には共通点があって、どちらも女たちの物語であるということである。

『枕草子』は宮廷でくり広げられる女たちの遣り取りである。中心に中宮定子がいて、それに仕える女房たちの話がメインであって、確かに一条天皇も藤原伊周(これちか)も、ちょい役ながら橘則光も登場はする。が、やはり女たちのおしゃべりの延長である。

『八日目の蟬』。希和子と薫の不倫相手は登場するが、その描写はきわめて短い。希和子をかくまったり庇護してくれる者たち、東京の康枝、名古屋のとみ子、新興宗教団体のメンバーも全員女である。小豆島の昌江も然り。薫が心を許すのは妹の真理菜と、同じく宗教団体から抜けてきた千草である。

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これにさらに添付したい。

『むかし・あけぼの~小説枕草子』。中宮定子が亡くなった後、藤原道長は自分の娘である中宮彰子を宮廷の中心に据える。海松子(みるこ・清少納言)は、彰子へのサロンに加わらないかという誘いを断る。

ラストシーン、海松子はすっかり落剥してしまっている。長命して紫式部も道長も既にいない。しかし、「書きたいことが書けて幸せでした。」そして今も中宮定子の墓を守っている。「いつも満ち足り世を楽しく過ごしている」のである。

『八日目の蟬』。終章で希和子は岡山でビジネスホテルの清掃をしている。時折小豆島行きのフェリー乗り場で発着する船を見に来る。いけないことだと思いながらも薫を抱き上げた時の感触を思い出している。「いつか小豆島へ渡ることはできるのだろうか」。それは不安でなく希望のほうがまさっている。

※定子は「さだこ」「ていし」、彰子は「あきこ」「しょうし」読み方があります。小生は双方後者で呼称しています。

ここで一旦、「八日目の蟬」シリーズは終わります。読んでくださってありがとうございます。

 

画は一度公開しましたが、モデルはいわさきちひろです。子どもを守ろうとする意志を表現したかったためか、腕が思いっきり太くなりました。また、子どもはすぐに重たくなりますから…