昨日の記載に補足しておきます。
この本は確か上下2巻あったはずである。妹尾河童氏が戦前の記憶と戦後に分かった事実(たとえば軍部の上層部の腐敗や隠匿が明るみになったこと)などが混同していることを追及した。
今思い出しました。高島俊男『お言葉ですが……④』に詳しい。
山中氏の意図としては妹尾氏を苛めたい、責めたいという気持ちからでなく、あくまでも“子ども視点”を大事にしたかったのだろうと思う。
山中氏曰く「Hが少国民の生活意識からかけ離れて、大人の戦後感覚で歴史事情を判断している」。
山中氏の愚直な思いの表れだと小生は思う。(ここまで昨日書いた)
高島俊男『お言葉ですが……④』について、三田村鳶魚(えんぎょ)についても触れてある。
『少年H』が書かれたのは1997年である。
三田村鳶魚が、「時代小説の類いがおかしくなった」と感じた大正末期はやはり、明治維新後半世紀かそれくらい経過してからであった。
鳶魚はとある通俗小説について……
[登場人物が]「政事(せいじ)を私(わたくし)し、民を絞る大盗徳川」[=政治を自分たちの都合のいいものとして、税金や年貢を庶民から搾り取る]なんていふことは、江戸時代に云つた者は決してない。そんなことを高言する者は無かつた。薩長が新政府で跋扈すると共に、江戸の幕府といふものを、むやみに悪くいふことにして、学校の教科書なんぞにもさういふ意味のことを書いた。大衆小説の作家なんぞは、わけもわからずにさういふ教育を受けたから、わけもわからずに、こんなことを書いてゐる。幕府の功罪といふものは、六十年経つた今日でも、まだ本当に考えられることは少い[=きちんとした答えが出せるものではない]。教育といふものは恐しいもので、時に赤いものを黒いものとすることもある。
……と述べている。[ ]は大貫が添付しました。
高島氏は「これは戦後の教育にもあてはまる」としている。
「名主は苗字帯刀御免の人だから、斬つてしまふといふのは事によると嘘ではあるまい」と書いてある。「苗字帯刀御免」というのは、士分の待遇を受けていることである。そういうものはたしかにあったに違いないが、苗字帯刀を許されたからといって、それ故に人を斬ってもいいというわけではないはずだ。帯刀を許すというのは、無礼討をしても構わない、という意味のものではない。無礼討でないにしろ、人を斬っていいということでは更にない。作者はそこのところがわかっていないようにみえる。
「新徴組」といふ壮士の団体は、徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関でありました。と書き出してある。もともと小説だから、善人を悪人に、悪人を善人に書いたところで、悪いわけはないでしょう。しかし新徴組というものを、こういうものだと思う人があったら、それは大変な間違いで、壮士の団体というのはまあいいが、決して「徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関」だったのではない。浪士取扱いという名目で、浪人を沢山集めた。これは清川八郎の目論見(もくろみ)で、それが新徴組になったのです。こんな歴史は今改めていうまでもない話であるが、諸藩の注意人物を、どうするこうするというようなものじゃない。
青字の部分は鳶魚が中里介山の『大菩薩峠』の誤りを質したものである。
薩長の下級武士が明治政府で幹部になったのだが、ひたすら「江戸時代は悪い時代だった」という教育が為された根幹には彼らのコンプレックスがあるとしか思えない。
長くなって恐縮だが、鳶魚は身内に近藤勇を知る者がいたそうである。
彼が人を多く斬って世間から注目された蛤御門の合戦、これは御築地の陰のところに隠れては、行き過ぎる敵をうしろから斬っては、またもとの位置に隠れている。そうしてまた敵の行き過ぎるのを見ては、そこから出て斬った。それから三条小橋の升屋喜右衛門のところに、西国筋の浪士が五六十人もおりますところへ、二十人ばかりで押しかけて行って、そのうち七人を斬って、追い飛ばしてしまったなどということは、人におぼえられている仕事だったのでありますが、近藤の人を斬ったのに、前から斬ったのは一つもない。必ずうしろから斬っている。いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、と申しておりました。私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります。近藤が道場を持っていたとしたところが、そういうわけでありましたらば、それが立派な剣客であったという早呑込みをしては、大きな間違いが出来るだろうと思います。
昭和5年に書かれたものらしいが、新撰組がエンターテインメントの題材として大衆小説におもしろおかしく書かれていたのであろう。最後は
今日近藤勇をおもしろがって、皆が楽しむということを見て、我が国の今のありさまを悲しむのみならず、その心が続いていったならば、近い将来がどんなであるかと思うと、まことに悲しみが深い。……と締めくくられている。