小谷野敦『こころ』は本当に名作か~正直者の文学案内(新潮新書)より
※適度に要約しながら転載します。
私の好みは別にして夏目漱石の『坊ちゃん』『吾輩は猫である』は名作であり十分に面白い。
しかし『三四郎」以降の漱石は小説が解体していく。不自然なところが多すぎる。
『こゝろ』にしても同様。静とその母は父親がおらず、静は女戸主ということになる。「先生」と結婚したとすればおかしい。なぜならば「先生」は父親が長男で、その長男だから家督を継ぐことになる。これが婿になるというのはあり得ない。
同時に彼女らの狙いは「先生」の財産だったはずで、はなから「先生」を狙っていたはずである。「先生」より先に静の家に下宿していたKは自殺を遂げるが、理由が失恋にあったことは明白で、母娘ともにそれに気がついていないはずはない。
漱石は大正時代から良家の子女が読んでも差し支えない小説(※)だとされた。その代わりに文壇から軽視されてきた。危うさのない小説は文学の王道から外れるからである。『こゝろ』も、発表当時は失敗作と見做されていたが、昭和中盤あたりから亀井勝一郎や江藤淳たちが持ち上げ始めた。友情と恋愛の葛藤を描いた青春小説とされるが、こういうものを代表作とか傑作だとされれば、当の漱石自身が迷惑だろう。
※大貫注:昭和十年代くらいまでは小説家の地位は低かった(収入が低いという意味ではない)。上記の通り読者は小説に「危うさ」を求める。倫理や正義の反対、つまり不道徳を描く点が面白さの源だからである。「いだてん」をご覧になった方はお分かりだろうが、新聞記者も昭和30年代くらいまではブンヤと呼ばれ、蔑まれていたのも事実である。
絵画や音楽や書道といった芸術は本来、人の心を解放するためにある。ところが“『こゝろ』は名作だ”という押しつけが今なお多くの高校生を苦しめているのではないか。教師がマウントを取るための道具なのではないかとすら思う。
自分が良いと思ったものが良いのであって、そのこと自体に価値がある。