私は歩きながら、自分が今している仕事のことや思想のことや
生活上のいろんなことを、論理のじゅんを追って考えたりは、
ほとんどしません。歩きながらの見聞やそれの引きおこす感覚を
味わうのにいっぱいで、チャンとしたものを考えることは私に不
可能なのです。まず、犬が歩いている状態に似ているのではないか
と思う。ただ仕事や思想や生活のことが、ときどきチラリチラリと
頭にきます。その断片や、またはその基調になっている色あいや
調子のようなものが、フッと頭にきては、しばらくとどまっている。
そのうちに、目が美しい木のシルエットをとらえたり、耳が思いが
けない響きをとらえたりすると、その瞬間に、さきほどの思いは
完全にどこかへ飛びさっています。
そのようなことをつづけながら、私は二時間三時間と歩きます。
つづけて歩くと疲れすぎるので、そのあいだ、一度か二度は乗り
ものに乗ります。歩くよりも乗りものに乗っている時間の方が多い
かもしれません。それでよいのです。乗りものに乗っているときも、
私にとっては、じつは歩いているのと同じことが起きているのです。
自然と人びとの中に立ちどまり、そしてそのあいだを通りすぎていく
ということです。
………………
長い引用になった。高校三年生の時の現代国語教科書の最後の文章だったと思う。
三好十郎『歩くこと』である。
そこで、歩くということは、どういうことだろう?
まずそれは、現在自分がかかずらっていることやもののいっさい
を捨てて、自分の身体ひとつでそこから抜けだしていくということ
です。
そのときの自分は、歩いていくということに必要のない、ムダな
ものは一つも持たないが、必要な最小限のものだけはかならず持っ
ているということです。
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今日、今なお学ぶことの出来る名文である。
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