・・・・・・・っということで、「心=身体そのもの」という仮説を立てると、さらに考えが広がっていきますね。
コンピュータと脳はとても似ていると思われています。
入力を演算して出力するという働きをするからです。
パソコンはキーボードやモニターなどのハードウェアとCPUから構成され、人間でいえばハードは肉体CPUは脳だと考えていいでしょう。
すると、心はパソコンでいえば何に当たるのでしょうか?
プログラミング(OSすなわち基本ソフト)と考えられますね。
基本ソフトには重さがありません。
多分ですが、心にも重さがありません。(21グラムだという映画もありますが。)
これらの認識はあくまで心と身体は別のものという考えが基礎であって、パソコンならそのとおりだといえるでしょう。
しかし、今回ぼくが言うように、身体は心そのものだということが正しいとすると、パソコンと人間はどう違うのでしょうか?
よく言われるのがパソコンは人間が入力してやらなければ、出力しないという指摘です。
しかし、最近は視覚や触覚、言語の入力装置を繋げれば、人間がいちいち入力しなくても自主的に(?)出力することが可能です。
もちろんそのように「人間が」プログラミングしているからだといえるのでしょうが、人間が予想も付かない出力をすることもだんだん可能になってきました。
例えば、作曲とか絵を描かせるとか、小説を書かせるとか。
まあ、まだまだ先は長いでしょうが、そのうち人間と同じように「心があるように見える」コンピュータだって出現してくるでしょう。
すると、「心があるかないか」はどうやって判断すればいいか判らなくなるはずです。
例えば、電話の相手がコンピュータなのか人間なのか判らなくなる時代はすぐそこでしょう。
他に人間は子孫を残すことが出来るという人もいるでしょう。
たしかに、映画マトリックスのエージェントのように自ら複製を量産することが出来るでしょうが、あくまでも複製です。
複製したものとオリジナルが同じなら、人間のように子孫を残すという意味にはなりません。
だって、子供には個性があるからです。
しかし、これもファジー理論を複製のときに用いれば、ユニークな個性(?)を持った子孫(?)を残すことも不可能じゃないでしょう。
アレレ、これじゃ人間とコンピュータはますます区別が付かなくなる・・・・・でしょ?
攻殻機動隊やターミネーターの描く世界はすぐそこなのです。
ここで、勘のいい人なら、ハハァ~~んと気付くはずです。
これはあくまで人間からの視点であって、コンピュータからの視点ではないのです。
全てが、人間から見てまるで人間のように見えるということなんです。
心があるように、創造力があるように、子孫を残しているように見えるだけなのです。
コンピュータが人間を見ているわけではないのです。
その違いはどこから来るのでしょうか・・・という一巡りしてまた元の疑問に帰ってきます。
その究極の判断基準は、人間は身体と心は一体のもの、不可分であるということじゃないでしょうか。
ぼくは違いを証明するのはこれっきゃないと思うのです。
思いがけず長くなったので・・・つづく。