イスラム教を理解する試み(その12) | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・っということで、何故イスラム教が急激に浸透し、イスラム帝国と呼ばれるほど拡大していったかの話に移ります。

先ず、簡単な理由のほうから。

それは、戦う相手がタイミングよく弱体化していたから。

ムハンマドがイスラム教の布教活動を始めた7世紀初頭、アラビア半島の北にはビザンティン帝国が存在していました。

言うまでもなく、キリスト教国(厳密に言えば東方教会)です。

民族的にはギリシャ人が主力ですが、多民族国家です。

東にはササン朝ペルシャが存在していました。

宗教で言えば、彼らはゾロアスター教ですね。

民族はもちろんペルシャ人です。

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そのころは丁度ビザンティン・サーサーン戦争 (602年 - 628年)の真っ最中でした。

当初はササーン朝ペルシャが優勢で、エジプトは勿論のことイェルサレムも襲われ、あのキリストの十字架も持ち去られてしまいます。

しかし、カルタゴ出身のヘラクレイオスが610年(ムハンマドがジブリールがら啓示を受けた年ですね)にビザンティン帝国の皇帝になると、反撃を開始します。

一時期はコンスタンチノープルがペルシャ側に包囲されることもありましたが、628年にはペルシャの首都であるクテシフォンに迫り、講和が実現します。(十字架も後に返還されます。)

そのタイミングを見計らっていたように、イスラム教側がササン朝ペルシャに侵攻して来ます。

634年の「橋の戦い」ではイスラム教側が敗北するものの、「カーディスィーヤの戦い」(637年)に勝利し首都のクテシフォンを攻略、642年に「ニハーワンドの戦い」で止めを刺し、ついにササン朝ペルシャ帝国を滅ぼしてしまいます。

ムハンマドが死んだのが632年ですから、如何に驚異的な侵攻速度だったかが分かります。

自信をつけた彼らは途中ビザンティン帝国軍に「ヤルムークの戦い」(636年)で大勝します。

その勝利は交易の要地シリア地方の獲得を意味します。

戦場が砂漠地帯で、イスラム軍側が慣れていたとはいえ、まさしくピックリポンの勝利です。

その後、イスラム教は海戦でも勝利し(655年)、ついにビザンティンの首都であるコンスタンチノープルを包囲するまでになります。(674年から678年まで)

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さらに見落とされがちですが、ビザンティンとペルシャの長期にわたる戦争が、東地中海-シリア-メソポタミアを結ぶ東西貿易を衰退させ、通商ルートがアラビア半島南部のイエメン経由に迂回したために、イスラム側に繁栄をもたらしました。

まさに棚からぼた餅の状況ですね。

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以上、イスラム教の拡大を宗教面で分析されがちですが、このように周辺国の情勢によって助けられた部分がとても大きいのです。

ぼくはコチラの要素のほうが大きかったと思っています。

イスラム教がこれほど勢力を持ったのは、実にラッキーな要素が重なったからです。


次は、イスラム教徒は嫌がること間違いなしのイスラム教徒=盗賊説を述べます。

・・・・・・つづく。