1月26日から国公立大学の出願受付が始まる。
締め切りまではまだ猶予があるものの、これ以上待ったところで状況を変えるような新しいデータが出てくるわけではないことは分かっている。
得点調整がないことも確定し、手元にあるのは共通テスト後の各予備校のリサーチ結果だけだ。
これまで子供たちは、模試の数字や単元別の習熟度といった指標を元に、論理的に学習を積み重ねてきた。
弱点を補強し、対策を練るプロセスは極めてシステマティックだったはずだ。
しかし、いざ本番の出願となると、それまでの論理的な世界とはかけ離れた、不確定要素だらけの判断を迫られることになる。
合否の前提となるのが、あくまで本人の記憶に基づく自己採点であるという点からして不安定だ。
マークミスはないか、記憶違いはないかという懸念は、結果が出るまで消えることはない。
デジタル技術が進んだ現代において、正確な点数や順位が分からないまま、不確かな情報を頼りに人生の岐路を選択しなければならない仕組みには、ただただ疑問が残る。
予備校が出す判定や分布図も、絶対的な指標にはなり得ない。
予備校ごとに異なる母数や判定のズレ、私立専願者が含まれた見かけ上の順位など、数字の裏側にある不確定な要素があまりにも多い。
5人の定員に集まる層と、50人の定員に集まる層では、同じ倍率でも意味合いが異なるし、昨年のデータもあくまで過去のものでしかない。
情報を精査しようとすればするほど、判断材料としての精度に限界を感じざるを得ないのが現実だ。
ネット上には様々な分析や戦略論が溢れているが、当事者にとって確実と言える安心材料などどこにもない。
判定が良くても二次試験との相性次第では結果が変わるし、その逆もまた然りだ。
現代の子供たちは、多様性を認められ、論理的に考えるよう育てられてきた。
それなのに、最後の最後で「運」や「賭け」に近い決断を強いられるシステムは、彼らが受けてきた教育とも乖離しているように感じる。
もっと透明性の高いルール、例えば正確な点数と順位が開示された上での出願であれば、これほど無用な心理的消耗は防げるはずだ。
しかし、制度への不満を口にしたところで現実は変わらない。
これ以上の情報は出ない以上、今ある不完全な材料の中で折り合いをつけるしかない。
長い時間をかけて積み上げてきた努力が、最後はこのような不透明な決断に委ねられることに納得がいかないまま、それでも期限に合わせて願書を出す。
結局のところ、何をもって「納得」と呼ぶのかさえ分からなくなってくる。
「これだけ調べたのだから」と自分に言い聞かせるのか、あるいは「最後は本人が決めたことだから」と割り切るのか。
……どれも後付けの理由に過ぎないような気がしてならない。
プロである予備校の先生ですら「予測をたてるのは難しい」と弱音を吐く。
海外の大学のように「門徒を広くして、入ってからどれだけ学んだかで評価する」システムの方が、学びの本質に近いし、今の若い世代の気質にも合っているように思えて仕方がない。



