
夏休み。小学生の息子たちに水泳を教えるため、公共のプールに通い始めて一週間を過ぎた。
塩素の匂いにも馴染み、今や水の中で繰り広げられる「人間模様」が、私の密かな楽しみになっている。
特に水中ウォーキングのコースは、見知らぬ高齢者たちが自然と顔見知りになり、互いに言葉を交わす。まるで社交場のようだ。
今日も、我が家の息子たちが練習に励むのを眺めていると、「お兄ちゃん、すごいねぇ、うちの孫も同じくらいの年よ」と、時折声をかけてくるおばあさんたちがいる。
そんな中、今日、特に耳に残った二人のご婦人の会話があった。
「専業主婦は、暇じゃないのよ」
プールサイドで耳にしたのは、月に8回、曜日固定でウォーキングの指導を受けるチケットを買ったという、二人のやり取りだ。
「半世紀、専業主婦やってるけどねぇ。月に8回って意外と難しいのよ。孫が、私を年がら年中、暇だと思って突然来るでしょ。そうすると、プールに歩きに行く日なのに、行けなくなっちゃうの。専業主婦はみんなが思うほど暇じゃないのよねぇ」
話す声のトーンに、どこか諦めと、ほんの少しの憤りが混じっている。
隣で聞いていたもう一人のご婦人も、大きく頷く。
「そうよ!うちの孫は中学に上がってから来やしないけど、おこづかいほしい時だけくるのよ。こっちも色々、予定あるけどねぇ。あとチケット二枚あるけど、月に8回は無理だわ」
二人の会話は、そこでさらに勢いづく。
チケットを消化する難しさ、孫との距離感、そして何より、自分たちの「時間」を巡る、些細だが、至って現実的な本音。
「暇じゃない」が教えてくれた、母のこと
毎日、24時間びっちり。息子のスイミング練習の時間を捻り出すだけでも、四苦八苦している私から見れば、その「忙しさ」は、なんとも贅沢な響きを持つ。正直なところ、少しばかり羨ましくもある。
だが、「半世紀、専業主婦」という言葉を聞いて、私の母のことが頭をよぎった。
母は、本当は外で働きたい人だった。けれど、父が「家にいてくれ」という人だったし、私を含め三人兄弟の育児があった。
特に私の場合、幼少期は体が弱く年がら年中、入院していた。
夜勤もあり土日祝も関係なく働く父のために、母が家にいてくれる必要があった。
母は、自身の希望をしまい込み、家族のために専業主婦という道を選んだのだ。
外で働くだけが「忙しい」わけではない。
家庭を切り盛りし、子を育て、夫の生活リズムに合わせる日々。
それは「暇」とは程遠い、綿密なスケジューリングと、時に自身の願いを後回しにする心持ちの上に成り立つ生活だ。
プールサイドの高齢のご婦人たちの言葉は、まさに、母の世代の専業主婦が抱えてきた「見えにくい忙しさ」や「自分の時間を持つことの難しさ」を、そのまま代弁しているようだった。
水面に揺れる光の中で、人生の機微に触れる
そして、誰もが自分なりの「忙しさ」を抱えている。当たり前だが、つい忘れがちな大切なことに、はたと気づかされた。
この公共のプールでの時間は、私にとって、ただ体を動かすだけの場所ではないらしい。
水面に揺れる光の中で、ふと人生の機微に触れる。そんな、得難い時間になっているのだ。
