エンパスと非二元 | かんじるココロケア あまのこころ

 

エンパスというのは、

 

他人との境界線が曖昧で、

どれが自分でどこまでが相手のものなのかの区別が

ぼんやり曖昧なために、

 

自分がそうしたいのか、

相手がそうしたいのを汲み取って

「そうしたい」とおもっているのかがわからなかったり

 

他者の気持ちやその場のムード(空気感)と

自分自身のそれとの区別がしずらかったり、

 

誰かの感情的なものや身体的な痛みというのを

自分のことのように感じるというようなことは、

 

私の場合、

あとあと仕事で使えるスキルにもなったりもしたけれど、

なに?なに?と混乱することもあったり、

「 自分の意思に反して、ただ流されてしまう」

ということもあった。

 

こういうのは誰しもがやっていることなのだけど

感受性のセンサーの感度によって

それが顕著にあらわれたり、過敏であったりするというのを

近年「エンパス」と呼ぶことを知ったわけです。

 

 

けれど、非二元の視点においては、

 

それもこれも“わたし”であり

つまり、それもこれも“わたし”ではない

誰のものでもない

 

ということを知ると、

 

それが自分のものなのか、

相手のものなのかという区別すらも、どうでもいい

(そんなものはないのだから)

 

というふうに解決されたわけです。

 

一生懸命に、自他の区別/境界線をひき

どっちがどっちなのかとハッキリさせようとするよりも

 

「 ああ、そういうもんなんだな。

 

これもそれもわたしだし、

つまり、これもそれもわたしではないのだから、

 

そんなふうに感じることもあるよね。」

 

というほうが、私にとっては

スッと腑に落ちていくオチだったわけです。

 

 

同時にいろいろな音(思考、気持ち、知覚)が

入ってくる=感じとることがあるかもしれないけれど、

 

そこは聖徳太子になった気持ちで、ただ聞いてみる

 

と、どれもこれもが平坦で、

どれも特別な意味はなく、重要性もおんなじ

つまりすべてが「なんでもない」ことに気づく

 

いろいろな 音 が鳴っている

 

そうすると、それらの音がシュッと集約されて、

 

 静けさ へと変わります。

 

 

そのどれもこれもがわたしではない 

そういうことはとくに

「 なんでもない 」というのは楽なオチです。

 

どれもこれも「 なんでもない 」から、

どのようにでもかんじれるわけなので。

 

 

 

 

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