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 対談ではあるけれど、雑誌の短い記事を読んだような、中途半端な読後感。なにせ、対談だからこその噛み合った面白い対話がほとんどないのである。それぞれがご自分の見解を述べているだけで、その繋がりなり共通点なりを明確に腑に落としたいなら、「読者ご自身でどうぞ」という感じの対談である。2005年10月初版。

 

 

【マンガと日本語】
 マンガは日本文化から生じており、それは日本人の脳の使い方から生じたのである。ここ20年ほど、それをいってきたが、たいていの人は聞いていない。(p.ⅴ)
 日本人が日本語を使っているかぎり、マンガは日本の支配的文化の一つとして続くはずである。それはこの国の宿命みたいなもので、私はそれでいいと思っている。(p.ⅵ)
 日本語とマンガは不可分の関係にある。
 その概要は、下記リンクを読めば分るだろう。
   《参照》  『日本辺境論』 内田樹 (新潮社) 《後編》
            【日本語脳の並列処理という特殊性】

 

 

【視覚と聴覚を統合したのが言葉】
 視覚系から情報処理をしていっても、聴覚系から情報処理をしていっても、最終的な結果が同じになるシステムを言葉というんです。
 つまり、・・・中略・・・脳はせまいですから、両者がどうしてもぶつかるところがあり、そこでは目から来たルールと耳から来たルールに共通のものしか残せないはずです。
 そうやって、われわれの脳は言葉というものをつくり出したわけです。(p.29)
 たいそう割り切りよく書いているけれど、実際には、いうまでもなく、もうちょっと複雑な過程がある。それらについては、下記リンクにリンクされている養老さんの著作を全部辿ればいい。
   《参照》  『記憶がウソをつく!』 養老孟司・古館伊知郎 (扶桑社) 《後編》
            【共通処理の明暗 : 視覚と聴覚と言葉】
            【日本語の特殊性】

 

 

【マンガは饒舌な象形文字】
牧野  日という文字の変化で丸に点を打ったような単純なものは、パピルスとか粘土版とか木簡とかいう、ひじょうに不自由な素材に書きます。だから、単純にせざるをえなかったのではないか。
 本当はアイコンの方向にいきたいのだけれど、能率を上げようともっと単純になっていく。それが紙ができて印刷技術が発達すると、マンガのような複雑な表現形式が生まれてくる。
 だから、マンガは饒舌な象形文字という言い方を私はするんですが。
養老  それから日本語がおもしろいのは、擬音語(音声をまねてつくった)は徹底的に残しているんですね。「つらつら」とか「しみじみ」なんていうのはよくわからないけれど、日本語はそういう音をものすごく多用します。それも一種の擬音語に近いものです。(p.39-40)
 マンガは、饒舌な象形文字であり、なおかつ豊富な擬音語が記述されている。視覚的にも聴覚的にも、かなり感覚的な表現方法である。

 

 

【地面と天井】
 感覚世界が地面で、「同じ」という概念の世界は、天井です。神様がそのいちばん上にある。概念の世界に浸かっちゃうと、地面を忘れちゃうんですよ。マンガはじつはそれを思い出させてくれるんですが、「同じ」という世界に浸かっちゃった人は、マンガなんかくだらない、っていうんです。その地面の大切さを知っているのが日本人で、それもあってマンガははやるんですよ。(p.34)
 日本語は、欧米系言語に比べたら、明らかに感覚的な言語であることは間違いない。
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <後編>
             ■ 音と質の日本語 vs 意味と量の外国語 ■

 欧米系言語はロジカルであるがゆえに、ヒエラルキー(階層)を生むという必然性が備わっている。上に行くほど抽象度は高くなり、抽象度が高いほど知的にも社会的にも優位者であるかのような通念がまかり通っているけれど、そのヒエラルキーの屋台骨を支える支柱の頂点(天井)にあるのが“神様という抽象概念”。
 しかし日本人にとっての神様は、結構、身近である。赤い涎掛けを付けて道端(地面)に立っている神様だっている。マンガで抽象概念を視覚化するのは難儀だけれど、お地蔵様を描くなんてお茶の子さいさいである。日本人の世界観を世界に伝えたいなら、歩くお地蔵様にウジャウジャ世界を語らせればいいのである。

 

 

【現実離れを異常と捉える偏狭さ】
牧野  少女マンガのキャラクターの顔は目が大きいですね。どう考えても眼球が頭骨からはみ出してしまう。
 これは、西洋型の美術教育を受けた方々からすると許しがたい。あり得ないことを当たり前のように描いて喜んでいるなんていうのはおかしい。少なくともそれを大学の技術教育に取り入れることはできない、という論法です。
養老  それは、怒っている先生が生物学をご存じじゃないんですよ。
 生物学ではスーパーノーマルスティミュラス(疑似入力)という考え方があります。生き物がスーパーノーマルな刺激に反応するということです。
 典型的なのは、西洋人の女性のオッパイです。大きければ大きいほどいい。・・・中略・・・。それは現実離れしているということですからスーパーノーマルなんです。
 逆に言うと、男の知覚系が現実よりもはるかに強いところまで許容度を持っていて、もっと大きくていい、もっともっと大きくていいといっている。(p.57-59)
 人間は、高等教育を受ければ受けるほど、現実(ノーマル)一辺倒の認識に堕落していくけれど、生物としての人間の感受性は、本来、現実を遥かに超えた(スーパーノーマルな)ものであることを見落としている。
 制限された知覚に基づくノーマルなどたわいなく超越できる本来的感受性が保たれていれば、自ずとスピリチュアルな領域に参入しうるけれど、高等教育という洗脳を施された人間たちは、感受性が干乾びているから、スピリチュアルどころかマンガですら存分に享受できないらしい。

 

 

【すべてのリアリティーはバーチャルである】
養老  絵も写真もテレビも、現実でないことは、みんなわかっています。それをいまバーチャル・リアリティーなどと高級そうな言葉で言います。そうではなく、すべてのリアリティーはバーチャルなんです。
 なぜなら、それを本当だと思っているのは、みなさんの脳であって、ほかの人がどう思っているかは、わからないのですから。(p.69)
 「絵も写真もテレビも、現実でない」ということが分からない方は、「脳が生み出す認識」に関する著作を探して自分で自分のアタマをブラッシュアップしてもらうしかないけれど、分かる方なら、マンガは、絵や写真やテレビと同列に置きうるものであることが理解できるはず。
 マンガを見下しているとするなら、それは、その人の知性がソコソコの段階にまで至っていない証拠である。

 

<了>