《前編》 より
 

 

【仏式から神式へ】
 戒名については第20代の為理(ためただ)まではついておりますが、第21代為紀(ためもと)が伊勢神宮の大宮司職についておりまして、その職のまま亡くなりましたので、第21代以降は神式でお葬儀をしてまいりました。(p.123-124)
 いずれも明治時代の方。

 

 

【和歌のこころ】
“和歌のこころ”と申しますのは、どなたもよくご存じの『古今集』の序に、

 やまと歌は、人の心をたねとして、よろずの言の葉とぞなれける。世の中にあるひと、ことわざしげきものなれば、心に思ふこと、見るもの聞くものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかわづの声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思わせ、おとこ女のなかをもやわらげ、猛きもののふの心をなぐさむるは歌なり。

 とありますが、実にこのとおり。これが和歌のこころだと思います。(p.173-174)
 上記の、『古今和歌集』の紀貫之による序文の一部は、下記リンクに引用されている。
    《参照》   日本文化講座 ⑤ 【 言霊・天皇 】
               【言霊(ことだま)】

 

 

【和歌の世界】
 和歌はあくまでも倭歌(やまとうた)ですので、なんとか避けたいと思っていますのが外来語やカタカナ言葉。しかし、これだけ海外旅行が盛んになってまいりますと、地名や固有名詞を詠み込まざるを得ない場合もあります。・・・中略・・・。
 厨歌もしかり。和歌は王朝文学が基本となっていますので、読む範囲もおのずと決まっておりました。今日、女性が一日の中で最も長く過ごす台所は、和歌を詠む場所ではなかったわけです。・・・中略・・・。いくら近年、オープンキッチンになったとはいえ、厨歌はいかがなものかと思います。物を刻む包丁の音を詠むよりは、同じ音ならば雨や風の音を詠みたいと思いますが・・・・、まあ、せいぜい、台所に虫の音が聞こえてくるくらいは・・・。和歌の世界とはそのような世界だと思って、現代短歌とは一線を引いております。(p.175)
 日本文化は、「自然は神なり」が基本。
 この基本と、下記にあるように、神に捧げる和歌という点を踏まえるのが重要。
 ベートーヴェン、モーツァルト、バッハ、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは、神に捧げる音楽を作曲したり、絵を描いたりしていたわけですが、日本の和歌も同じように神に捧げるために詠まれているということは、あまり知られておりません。(p.176)

 

 

【字数について】
 よくみなさんに、俵万智さんの短歌についてどう思われますか、と聞かれることがあります。私は、初めから字余りは和歌ではない、ある程度の制限を受けてこそ和歌であり、そうでなければ自由詩という形であると言ってきました。(p.176)
 下記リンクは、俵万智さんの現代短歌を和歌として扱っているけれど、間口を広くして日本文化復興をと願ってのことだろう。
    《参照》   『ときめく美』 小田孝治 (ヒューマン)
              【誇るべき三十一文字の日本文化】

 和歌は“言霊だけの超科学”ではない。31文字には31文字の、32文字には32文字の役割があることは、下記リンクに示されている。字数になんでもありは意味がない。
    《参照》   『「君が代」その言霊は、潜在意識を高次元へと導く《光の種子》となる!』 森井啓二 (ヒカルランド)《前編》
              【「君が代」は、五七六七七 の 三十二文字】
 あの天才、冷泉家の大スター定家卿ですら、三十一文字を読むのは苦しいと、『明月記』に書き残しておられます。私のような凡人が苦しいのは当たり前と思いながら、今日もまた一首と、読み重ねております。(p.183)

 

 

【「和歌の家」としての歴史】
 800年の歴史を持つ冷泉家を遡ると、藤原長家にたどり着きます。冷泉家のルーツ、長家の父が藤原道長で、その祖先に藤原鎌足がおります。
 藤原長家という人は和歌が大変に上手で、当時の後冷泉天皇から「本朝歌仙正統」という名号を賜るほどでした。・・・中略・・・。冷泉家の「和歌の家」としての歴史は、この長家に始まります。(p.184)

 

 

【冷泉家の由来】
 その名前の由来は冷泉通りに面して住んでいたことから、通りの名前をとって付けたものです。(p.186)
「冷泉」という変わった名前は、平安時代にあった天皇の譲位後の御所からきております。その御所が建てられた時、冷然院と名付けられていたそうです。それが火事に遭って焼けたことで「然」という文字は「燃」に通ずるということになり「泉」という文字を用いて、「冷泉院」となったそうです。それで、あのあたりの通りを冷泉小路と呼ぶようになったようです。(p.186-187)
 京極家、二条家なども通りの名前が由来。
 明治四年の戸籍法で苗字を付ける時、藤原では混乱を起こすから冷泉を名乗ることにしたと書かれている。
 私どもの祖先の藤原鎌足の場合は、中大兄皇子が蹴鞠をしている時、脱げた沓を鎌足が拾ったことで、そのあたりに咲き誇る藤の花を見て“お前に藤原という氏を与える”と、中大兄皇子、後の天智天皇が決められ、以来、中臣鎌足から藤原鎌足となったと聞き及んでおります。(p.187)
 193ページの冷泉家家系略図によると、
 藤原鎌足から10代先が道長、次いで、長家、忠家、俊忠、俊成、定家、為家。
 為家の二人の奥方のうち、宇都宮頼綱娘の子が二条家と京極家、阿仏尼の子(為相)が冷泉家の初代。

 

 

【家を守る大変さ】
 敗戦直後の混乱期に私と主人はこの家を継ぎました。文化財など顧みる余裕のまったくない時代、食べるものすらない窮乏のなかで、御文庫とこの屋敷を守り抜くということは並大抵なことではありませんでした。華族制度が廃止され、農地改革により収入の道が断たれたその中で、莫大な財産税、相続税が私たちの肩にのしかかってきました。来る日も来る日も土足で家に上がり込み、“こんな大きな家に住んで”と怒鳴る区役所の人への対応に苦慮しながら、自分の着物や田畑などを手放して家屋と御文庫を守り抜いたのです。私も主人も三十代の頃、よく乗り越えてきたと思います。(p.204)
 大きな難局に出会っても、善処、善処と重ねて今日まで来て、そして今、老朽化した家屋敷を修復することが出来るということは、私にとっては過分な夢が、花開くことと思っております。安心して次世代にこの冷泉家をバトンタッチできますが、私は、二度と再びこのようなしんどい家に生まれることだけは、ご免こうむりたいと思っております。
 戦中戦後、そして今日に至るまで、肩にかかっていた重荷を背負って生き抜いてきた私には、阿仏尼の生き方が大きな支えであったことは確かです。(p.193)

 

 

【冷泉家、遷都に従わず】
 為理の大功績は東京に行かなかったことといえます。もし、明治の遷都にあたり天皇さんに従いて移り住んでいたら、今日の冷泉家を残すことはできませんでした。関東大震災、第二次世界大戦・・・冷泉家が代々守り伝えてきた典籍類、調度品などの有形無形のものを失ってしまっていたでしょう。そう思うと何が幸いするかわかりません。(p.199)
 今日であっても、権力の東京、権威の京都という感じはあるだろう。和歌の家系は京都が相応しい。
 福島第一原発の放射能が原因で、首都東京から逃げ出す人々は非常に多くなっているけれど、日本人が東経135度付近に移り住むことで、日本文化復興が加速するかもしれない。

 

 

【「黄門影供」と、定家の言葉】
 定家卿の命日にあたる旧暦の八月二十日に行われる「黄門影供」は、・・・中略・・・。冷泉家では極めて大事な、写真撮影すらめったにできないほどの神聖な行事とされています。・・・中略・・・。黄門と申しますのは中納言の唐名(中国での名称)だそうで、定家卿がその地位にあった時、「京極黄門」と呼ばれておりました。当時は鎌倉幕府が政治の実権を握っていましたから、中納言には権力というよりも権威があったということでしょうか。
 そのことについて、定家卿が十九歳のときから書かれた日記『明月記』(冷泉家では「めいげっき」と読んでいる)の中で、「紅旗征戎わがことにあらず」(自分は政治軍事とはかかわりをもたないという意味)と記しておられますように、政治権力よりも王朝文学を手がけ、和歌の宗家としても権威を保っていたことが、結果的に冷泉家が今日まで続いてきた要因ではないかと思います。(p.148)
 「紅旗征戎わがことにあらず」
 これって、日本人全員が心がけるべきこと。


 

<了>